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お伽草子 太宰治著 前書きより 五歳の女の子がぐずり始める。これをなだめる唯一の手段は絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌きりすずめ、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。 この父は服装もまずしく、容貌も愚なるに似ているが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するというまことに奇異なる術を体得している男なのだ。 ムカシ ムカシ のお話ヨ などと、間の抜けたような妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのずから別個の物語がうん醸せられているのである。 「瘤取り」より ムカシ ムカシのお話ヨ 太宰によるこの話の展開は、右のほほにこぶの有るお酒飲みのおじいさんが、鬼にこぶを取ってもらったが、このおじいさんはこぶがないとさびしいと言うのである。 その話を聞きつけた左のほほにじゃまっけなこぶのあるおじいさんが、鬼にたのんでこぶを取ってもらおうと思ったが、なんの行き違いか右のほほにまでこぶを付けられて帰ってきた。 そして、太宰は語る。 実に、気の毒な結果になったものだ。お伽噺(おとぎばなし)においては、たいてい、悪いことをした人が悪い報いを受けるという結末になるものだが、しかし、このおじいさんは別に悪事を働いたというわけではない。緊張のあまり、踊りがへんてこな形になったというだけのことではないか。それかといって、このおじいさんの家庭にも、これという悪人はいなかった。また、あのお酒飲みのおじいさんも、また、その家族も、または、剣山に住む鬼どもだって、少しも悪いことはしていない。つまり、この物語には所詮「不正」の事件は、ひとつも無かったのに、それでも不幸な人が出てしまったのである。それゆえ、この瘤取りの物語から、日常倫理の教訓を抽出しようとすると、大変ややこしいことになってくるのである。それではいったい、何のつもりでおまえはこの物語を書いたのだ、と短気な読者が、もし私に詰め寄って質問したなら、私はそれに対してこうでも答えておくよりほかはなかろう。 性格の悲喜劇というものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れています。
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