徒然草
つれづれ草 吉田兼好 1330年
序段
つれづれなるままに、日暮らしすずりにむかいて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ
(手持ちぶさたに任せて、たわいも無いことをなんとなく書きつけていくと、私はいつしか書くことに熱中して、我を忘れてしまうのです)
第七段
あだし野の露
あだし野の露消ゆる時なく、鳥辺山の煙立ち去らでのみ住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏のせみの春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年(ひととせ)をくらすほどだにも、こよなうのどけしや。飽かず惜しと思はば、千年を過ぐすとも、一夜の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世に、醜き姿を待ちえてなにかはせん。
命長ければ辱多し。長くとも四十(よそじ)にたらぬほどにて死なんこそめやすかるべけれ。そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出でまじらはん事を思ひ、夕べの陽に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん浅ましき
消えやすいあだし野の露が、いつまでも消えるときがなく、また鳥部山の火葬の煙りが、たちさることがないというふうになって、人の命も永遠不滅のものとして、いつまでもこの世に住みとおすことができるとしたら、「ものの情趣」も徹底的に失われて、味もそっけもないものになるだろう。この世は無常であり定めがないのが、かえっておもしろいものである。
いのちを与えられているものの中で、人間ほど長命なものはほかにない。羽化した、かげろうは夕方を待たずに死に、夏の蝉(せみ)は春も秋も知らずに一生を終わってしまう。こんなものもあるのだから世俗に煩わされることなく、じっくりと落ち着いて一年をすごしてみれば、それだけの間でも、この上もなくのびやかに感じられることである。いくら生きても満足できず、いつまでも生きていたいと欲張るのなら、たとえ千年の寿命がさずかっていたとしても、それが一夜の夢のように短くはかないものに感じられるにちがいない。永遠不滅であり得ないこの世に、老残の醜態をさらすまで生きてみたところでなんになろう。長生きをすればするほど、恥を受けることも多い。
ところが、初老の年齢を越えてしまうと、姿のみにくくなったのをを恥ずかしいと思う心もなくなり、人の中にしゃしゃり出て仲間に加わろうと考え、棺桶に片足突っ込んでいるような年齢でありながら、子や孫がかわいいものだから、彼らが一人前になって、身を固めるところを見届けるまでは生きていたいと思い、何かにつけて欲をかくことが深くなるばかりで、「もののおもむき」を味わう心など、つめのあかほども持ち合わせがなくなっていくのは、じつにあきれはてたここと言わざるを得ない。
第八段
世の人心惑はすこと
世の人の心惑はす事、色欲には如(し)かず。人の心は愚かなるものかな。匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣装に薫物(たきもの)すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。久米の仙人の、物洗ふ女の脛(はぎ)の白きを見て、通を失ひけんは、まことに、手足、はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、ほかの色ならねば、さもあらんかし
世間の人が心を迷わすことで、色欲に及ぶものはない。人の心は愚かなものよ。香りのにおいなどはすぐに消えてしまう仮のものであるのに、ほんのかりそめに衣装に香りをたきしめたものであるとは知りながら、やはりなんとも言えないすばらしいにおいに対しては、必ず胸がどきどきするものである。あの伝説の久米の仙人が、洗濯している女のふくらはぎの白いのをみて、神通力を失ったとかいうことだが、ほんとうに手足や肌などが、うつくしくふっくらと肥えているというのは、ほかから仮につけた美しさではないから、いかにももっともなことであろうよ。
(久米の仙人: 伝説上の人物。修行して空を飛ぶ術を身につけたが、たまたま故郷の空を飛んでいるとき、洗濯している女のふくらはぎを見て色情を起こし、神通力を失って墜落した。)
第三十八段
名利に使はれて
名利に使はれて、閑(しづ)かなる暇(いとま)なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ
名誉と利益とは人間にとって垂涎(すいぜん)の的(非常に強く欲しがること)であるけれど、それに使役される奴隷となって落ち着いた余暇もなく、一生をあくせくと過ごすのはまったくばかげたことである。
財産が多いと、そちらの方に気を取られてわが身の安全を保つという点で不行き届きが生ずる。財産なんてものは、危害を受けたり係争をひき起こしたりする媒介物となるだけのものである。自分の死後には、黄金を積み上げて北斗星を支えるほどの遺産があろうとも、後に残った人にとっては、それはかえって厄介な物とされるであろう。愚かな人の目を喜ばせる楽しみというものも、また唾棄したいほどのものである。大きな車も、肥えた馬も、黄金、珠玉の飾りも、ものの道理をわきまえた人は、なんともばかげたことと見るに違いない。だから、思い切って黄金は山に捨て、珠玉は淵に投じてしまうがよい。こんなわけで、物欲に目がくらむのは最高に愚かな人である。
だとすれば、不朽の名声を長く後世に残すというのは、誰にとっても望ましいことと考えられるであろう。しかしながら、高位高官であるというだけですぐれた人とは言えまい。なぜなら、愚かで何のとりえもないひとでも、家柄の高いところに生まれ、時運に乗ずれば高位にのぼり、贅沢三昧に明け暮れるものもある。それとは逆に、文句なしにすぐれた賢人、聖人でも、みずから低い地位に甘んじており、時運に恵まれないままに生涯を終えてしまう例もまた多い。だから、ただいちずに高位高官を望むのも、物欲を望むのに次いでばかげている。
高位高官は不可としても、頭脳と人格とについては一世に卓絶しているという名誉も残したいものであるが、よくよく考えてみれば名誉を愛するのは結局は人の評判を喜ぶにすぎないことである。ほめる人もそしる人もいずれもこの世にとどまるものでなく、それを伝え聞く人だって、これまた同様にたちまちこの世から姿を消すであろう。こんなわけだから、誰に気がねをすることもないし、誰にしてもらいたいと願う必要もない。それに、名誉はまた非難を生み出すもとである。だから、死後の名誉が残ってみたところで何の利益もない。ゆえに、これを得ようと願うのも高位高官を望むのに次いでばかげている。
ただし、世間的な評判ということをはなれて、どこまでも「智」を求め、純粋に「賢」たらんことを願う人のためにいうなら、知恵というものがこの世に発現して、そのために人間の作為による虚偽というものが発生した。そもそも、才能すなわち知恵の働きなんてものは、とりもなおさず、煩悩すなわち心身をむしばむ迷妄の発達したものに過ぎないのである。だいたい、他人から伝えられて聞いたことや、学んで知ったものは本当の「智」ではない。それでは、どういうのをほんとうの「智」といえばよいのか。
いかなるをか善といふ。まことの人は、智もなく、巧もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝えん。これ、徳を隠し、、愚を守るにあらず。本より、賢愚、得失の境にをらざればなり。
また、どういうのをほんとうの「善」といえばよいのか。そもそも、人間として理想的な最高の境地に到達した人は、「智」もなければ「徳」もなく、「功」もなければ「名」もない。したがって、誰も知らないしただ一人として伝える者もない。これは身についた徳をかくし、表面上だけ愚かであるかのように見せかけているためではない。もともと、賢愚とか得失とかいった、あらゆる相対的差別相の境地に身を置いていないからである。
迷いの心にもとづいて、名利の何たるかを追求してみると、上述のような結果となる。万事はみな「空」である。
第四十九段
老い来たりて
老来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ。
若いころには老人になって、はじめて仏道を修行しようと、その時をあてにしていてはいけない。古い墓を調べてみると、それは、多くは年若くしてなくなった人のものである。思いがけなくも、病気にかかり、急にこの世を去ろうとする時になって、はじめて自分の過去の生活の仕方が間違っていたことが、自然とわかるということである。そのあやまりというのは、ほかのことではない、当然早くしなければならない仏道修行のことを後回しにし、ゆっくりしてもよい世間的な雑事を先にやって、今まで過ごしてきたことが残念でならないのである。その臨終の時になって後悔しても、何の甲斐があろうか。
人は、ただ、無常の、身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。
人はただ無常すなわち死が自分の身に迫っていることをしっかり頭において、わずかな間も忘れてはならないのである。そういう心がけでいるならば、どうしてこの世における俗念も薄らぐことなく、仏道を勧める心も忠実にならないことがあろうか。
第一三七段
花は盛りに
花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは。雨に対して月を恋ひ、垂れこめて春のゆくへ知らぬも、なほ、あはれに情深し
春の桜は満開のときだけ、秋の月は満月のときだけを、鑑賞するものとは限らない。雨空を見上げながら、姿を見せぬ月を懐かしがったり、部屋にとじこもったままで、春の季節の進行の風情を知らずに過ごすのも、やはりしみじみとした情緒がある。開花も間近い頃の梢だとか、花期が過ぎて散りしおれた庭の風情などは、満開の折にもまして見所の多いものである。
花が散ったり、月が傾いたりするのを惜しむのは、人情の自然ではあるけれども、特に風流でない人に限って、「この枝もあの枝も散ってしまっているではないか。今はもう何の見所もない。」なんて事を言うようである。
よろづの事も、始終こそおかしけれ
花や月に限らず、どんなことでも、始めと終わりの情趣が味わい深いものなのである。男女の間の愛情にしても、ただいちずに夫婦関係の成立することだけを問題にするのではない。なにかの障害があって縁が結べずに終わったつらさをかみしめたり、果たせぬままに終わった約束事のはかなさを嘆いたり、思う人と逢うことができないままに、長い夜をただ一人まんじりともせず明かしたり、遠く離れてしまった恋人のいる空に思いをはせてみたり、過ぎた昔の人をしみじみと思い出すようなことが、本当の恋愛の情趣を解することといえよう。満月の輝きを眺めているよりも、夜明け近くまで待ちつづけていて、やっと出てきた有明の月が、なんとも言えず趣ふかく、濡れた木の葉の上に、月の光がきらめいているのには、しんみりと身にしみて、このすばらしい情趣を理解する友がいてくれたらどんなに楽しいことであろう。
すべて月花をば、さのみ目にて見るものかは
月や花をただ目ばかりで見ようとするのはよくない。春には家を離れることなく、月の夜は寝たままで、花や月の趣を思い描いているのも、実際に見たときよりもはるかに確かな心象が得られて実に味わい深いものである。教養の豊かな人は、一見やたらに風流めいて見えず、その態度にも余裕が感じられる。これに反して、田舎者となると、何事でも執拗にもてはやそうとするものである。たとえば、春の花見の折には、花の下にねじりより立ち寄り、わき目も降らずに眺め回し、酒を飲んだり歌を歌ったり、おしまいには大きな枝を折ってしまう。夏の納涼の際は、泉に手足をつっこんでしまうし、冬の雪見には、新雪の上に降りていって足跡をつけて走り回るというふうで、どんなものでも、自分との間に距離をおいてみるということがない。
そのような人が祭り見物をした様子は、じつに奇妙奇天烈なものであった。「行列はまだなかなかやってこない。それまでは桟敷にいても無駄というものだ。」と言って、奥の座敷で酒を飲んだり物を食ったり、囲碁などに興じたりしていて、桟敷には見張り番を出しているので、「行列が来ますよ。」と言うときには、誰も彼も肝のつぶれるほどに慌てまくって、先を争って桟敷に走りあがり、転落しそうになるほど御簾を押し出して、押し合いへし合いしながら、少しも見落とすまいと目を血眼ににして「あれがどうだ、これがどうだ。」と、見るもの一つ一つに口を出し、行列が通ってしまうと、「次の行列が来るまで、、」などと言って、さっさとまた奥へ引き下がってしまう。都の人などは、うとうとしていてよくも見ていないし、もちろんぶざまな態度で前の人にのしかかって覗き見ようともしない。
一日が終わって日の暮れる頃には、並べてあった数多くの山車も、すきまなく立ち並んでいた人々も、どこへ行ってしまったのだろうか。車の混雑も終わってしまうと、桟敷の御簾や畳も取り払われて見る見るうちに物寂しげになっていゆくのをみると、世のはかなさも思い知れれて、しんみりとした気分になってしまう。そのように、閑散とした通りの姿を見てはじめて祭りを見たということになるのである。
略
若きにもよらず、強気にもよらず、思ひかけぬは死期なり今日まで逃れ来にけるは、ありがたき不思議なり
(人生の無常ということは)若いとか健康とかには関係がなく、予期できないのは人の死である。だから今日まで死を免れてきたのは、、きわめて珍しく不思議なことである。のんびりして時を過ごしている場合ではないのである。
兵(つはもの)の軍(いくさ)に出づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、身をも忘る
武士が戦争に出て行くときには、死が近い事を知って、家庭もわが身をも忘れるのである。出家して俗世間を逃れて住んでいる庵には、心静かに庭の泉や庭石の趣を楽しんで、死というものを他人事のように思っている人がいるが、それは大変な思い違いである。静かな山の奥に隠れていても死はかならずやってくるのである。
その死に臨めること、いくさの陣に進めるに同じ
山中の庵で心静かに暮らしていても、死に直面していることは、戦場に進んでいく人と同じなのである。
第百五十七段
筆を取れば
筆を手にとれば自然と何か書いてみる気になり、楽器を手にすれば演奏してみようという気になる。杯を持てば酒を思い、賽を取ればばくちをやってみようかという気が起こる。こんなふうに、人間の心というものは必ずなんらかの物事に接触することによって動くものである。だから、かりそめにもよからぬ遊び事に手をつけてはいけない。
かりそめにでも経典の一句に目をとめれば、なんということなくその前後の本文も目に入る。そのことによって、にわかに、長年抱いていた考え違いを改めるようなこともある。かりに今、この経文をひろげてみてなかったとしたら、このことには気づかなっかたはずである。これがとりもなおさず、物事に触れることによって得られる利益である。信仰の心がまるでおこらなくても、仏前に座して数珠を取り経文を手にするならば、本気にやろうとしないでいても、善果を得るための勤行が無意識のうちに出てきていることになるし、雑念いっぱいのこころのままでも座して座禅の体勢に入れば、これまた無意識のうちに禅定の境地にはいることができるであろう。
事、理もとより二つならず。外相もし背かざれば、内証必ず熟す。強ひて不信を言うべからず。仰ぎてこれを尊むべし。
人間における現象とその本体たる真理とは、もともと別個のものではない。外部に現れた人間の言動がもし正しさを外れないならば、内心の悟りの境地はすでに醸成されている。だから形式的な所行について、こんなものは信仰上なんの役にも立たぬなどということを口にしてはいけない。かえって、こういう所行を欣仰し尊重しなければならない。
第二百四十一段
望月の円かなる事は
望月の円(まと)かなることは、暫くも住せず、やがて欠けぬ。
注意を払っていない人の目には、満月が一晩のうちにそれほど変化するようには見えないのであろうが、一時もまん丸の状態を保つことなく、すぐに欠けはじめていく。病気が重くなるのも同じ状態を維持するまがなくて、早くも死期が近づいている。しかしながら、病状もまださし迫ってはおらず、死の恐れなどまるで感じられないうちは、この世の中は常に変わることなく、平穏無事な生活が永久に続くような思いに慣れてしう。そして生きている間に多くのことを成し遂げて、そのあとで心静かに仏道の修業にとりかかろうと思っている人は多い。ところが実際に病気にかかって死に直面するとき、数々の願い事は何一つとしてかなわず。いまさらどうしようもなくて、長年にわたる怠りを後悔して、今回もし病気が回復して命をとりとめることができたなら、昼夜兼行のがんばりを見せて、このことあのことなにもかも怠ることなくなしとげてしまおうと願いを立てるが、そのまま病気が重態になっていくと、正気を失い取り乱して死んでしまう。世の中一般にこれに類する人ばかりであろう。この事実を、世の人々は何よりもまず第一に、心にとどめておく必要があろう。
自分の願いをすべて成し遂げた上で、暇のある身となって仏道にすすもうなどと思っていては、その願いが尽きて、これでもうおしまいと言えるような時は来るはずがない。幻のようにはかない一生の間に、いったい何事をしようとするのか。すべて、願い事なんてものはどれもこれも妄想そのものである。願い事が心におこったら、これは妄想が自分の心を乱しにかかっていると悟って、やたらに欲をかかないことである。このような邪念に惑わされることなく、すぐさま万事を放棄して仏道に心を向けるとき、心に何の障害もなく、心身ともにながく平安をたもつ事ができるのである。