三人の女性と鈴木大拙(鈴木貞太郎) 上田閑照 著 より
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ビアトリス(夫人)なし、西田幾多郎なし、おこの(手伝いの人)さんなし。このように寂寥のなかでの一人が極まる昭和24年(大拙79歳)という年は、大拙にとってまた、第二回の長期海外生活の始まる年になった。敗戦後四年のこの年、招かれてアメリカにわたり、以後、諸大学での禅、禅文化、仏教思想などをテーマにした客員講義が十年にわたって続く。
「今は自分一人を残して親しい人々はいずれもこの世のものではない」、その「残された自分一人」の大拙は、昭和24年6月から、一人で世界を旅し、米国内の諸大学を移動する。八十歳を過ぎてからの「一人」は身にこたえるものがあったであろう。「旅も何もかも、いつも一人」とある手紙の最後に書き添えている。また「ひとりでは、なんだか物足りぬ、…. 年取ってからは、旅は、楽なものではない、何の因果かと思うこともあるが、しかし、やらねばならぬと思えば、なんでもない」。このようにして「一人」を生き、世界の只中で働きつづける大拙に、ニューヨークで彗星のように一人の少女が現れる。
その人こそ大拙の死まで秘書を務めた岡村美穂子さんでした。この出逢いこそ、正真正銘の出逢いといと呼ぶべきでしょう。以後、大拙は生き生きと、明らかに生まれ変わったのでした。
その出会いについて、大拙の没後、岡村さん自身が書いている。ニューヨークに住むハイスクールの一生徒、十四歳の少女が「仏教のえらい先生が日本からおいでになって」コロンビア大学で講義があるということを知り、「どれ、聞いてみてやろう」と「私も気負っていたのかもしれません」と彼女は言う、大勢の大学生や教師たちの間に忍び込み、大拙先生の現れるのを待っていた。やがて教室の扉が開かれ、片手にこげ茶色の風呂敷包みをかかえた大拙が「風を切るような大股でサッサッと」教壇を目指してまっすぐに歩いてゆく。教壇にのぼり、風呂敷包みを丁寧に広げ、和綴じの本を二冊取り出して、その本をめくってゆく。その大拙の現われにおける身体の動きに、彼女は「いつわりを知らない他の生き物のしぐさ」を感じた。「先生は、然るべき項を見つけると、静かな口調で話をはじめられました。私は、その気品ある見事な英語に驚かされました。」大拙(当時八十歳)の「仏教哲学」の講義が始まった。
講義の内容は十四歳の少女には難しかった。しかし講義を理解する以上のことを感じ取っていた。「いつわりを知らない他の生き物のしぐさ」と彼女は言う。人間には大なり小なり自意識による歪みや澱みが生ずるものだが、彼女が大拙に見たものは、身体化された真実の自然さである。彼女はそれを見ることができた。
彼女は「先生が全身で示される大説法それ自体」の響きを聞いた。大拙は、繕わず巧まないところに大いなるものが現れるという意味の居士号「大拙」の通りに、その存在の現われをもって彼女を説得した。
彼女は、仏教も禅も知らず、素手で、それだけにより直接に大拙の存在の真実性を感じ取ったのである。
仏教界での大拙の連続講演も聞くようになった彼女は、やがてコロンビア大学付属のホテルに住む大拙先生を訪ねるようになり、大拙は彼女にとって次第に決定的になってゆく。
「人が信じられなくなりました。生きていることが空しいのです」。少女のこの訴えを聞いて、大拙はただ「そうか」と頷いた。「否定でも肯定でも、どちらでもない言葉だと思いました。が、その一言から感じられる深い響きは、私のかたよっていた心に、新たな衝撃を与えたのではないかと、今にして鮮明に思い出されます。先生は私の手を取り、その掌を広げながら、「きれいな手ではないか。よく見てごらん。仏の手だぞ」。そういわれる先生の瞳は潤いをたたえていたのです。私が先生の雑務のお手伝いをしながら、心の問題と取り組ませていただいたのは、このような環境でのことだったのです」(因みに二人の間の言葉は、最後まで英語。「世界に禅を、禅に世界を」という願いに動かされて働きに働く大拙にとって、生活の言葉、仕事の言葉、心の言葉として彼女と英語をともにしたことの意義は大きい。)
助言でも慰めでも教えでもない「そうか」と言うこの一語は、「その時」の言葉として自然に出てきたものに違いない。単純ではあるが、容易な一語ではない。しかも言葉としてはなんでもない「そうか」である。それだけに、「深い響き」をその場で自然に聞きえた少女の無垢を思わざるを得ない。
老人は少女の、悩み始めたゆえの悩みの大きさと純粋さを直ちに理解し、そして、転調して、言う。「見てごらん。きれいな手ではないか」。この「きれい」は清浄という意味である。少女は自分の手に「仏の手」を見るという、思いもかけなかった新しい質の経験へと招待される。
このようにしてMihoko‐sanは大拙に出会い、大拙の下で道を歩み始める。
中略
1966年、大拙九十六歳の臨終のとき、看護にかかりきりであったMihoko‐sanが、"Sensei, would you like something?" と尋ねたのに答えた言葉は、"No, nothing, thank you."。まことに、生を尽くし、こがねを打ち延べたような九十六年のいのちが "No, nothing, thank you."という言葉となって、端的に言えば「無」となり、そしてその「無」が感謝しつつ芳しい風になって没してゆく。、、、、
おわり
写真:燈影舎 大拙の風景 より
参考:
妙齢にして大拙師叔に帰依し示寂にいたるまで十数年影の形に添うごとく奉持し太平洋を越えて護り徹したる純情をたたえて岡村美穂子嬢に贈る。
師を仰ぎ 青春ささげ 海原の 荒海越へて まもる龍神 抱石(久松真一)
(ここでの龍神とは自分の慕う人のため海中に投身し、竜に変じてその船の航海を安全に導いた美女の伝説による。)
久松真一は、米国ロックフェラー財産の招聘によってハーバード大学教授として、禅をテーマにした講義講演をするため昭和32年アメリカに滞在していた。
久松は、大拙の生活と仕事におけるMihoko−sanの「影の形に添う如き」親身のせわをつぶさに目の当りにして感銘し、その純情をたたえずにはおられなかったのである。
燈影舎 大拙の風景 鈴木大拙とは誰か 岡村美穂子、上田閑照著 より
感想:
戦後まもなく単身で80歳をこえる大拙がアメリカの大学で講義を行うということ自体すごいと思うのであるが、その講義を聴講する人々もすごいと思う。敗戦国の老人の話など、いったいどんな人が耳を傾けるというのか。また、その老人の話に瞬時に魅了されてしまった若干15歳の少女の存在もすごいと思う。『その人こそ大拙の死まで秘書を務めた岡村美穂子さんでした。この出逢いこそ、正真正銘の出逢いといと呼ぶべきでしょう。』と筆者に言わしめるように、人生の出会いのすばらしさを余すところなく示している。いったい、今の日本で果たして、15才の少女が80歳の老人の話に感動するなどということがあるであろうか。きっと彼女は瞬時にして大拙先生からにじみ出る真実の何かをつかみとることのできる人だったのでしょう。
人生にはこんなすばらしい出会いもあるのである。年をとると何事にも気力が薄れ、あらゆることに妥協する生活になりやすい。そんな私に、あらためて、死ぬまであきらめずに真実に生きつづけることの大切さを教えられた気がした。