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「禅とは何か」What is Zen? より 昭和二年 鈴木大拙 第2回 第五講 心理学から見た禅
宗教というものに、力を与えるのは、どうしても神秘的経験でなければならない。神秘的経験というものはいつも新しいものを作り出す動機である。 禅というのは、即ち神秘的経験ということである。神秘的経験とはどういうことになるかというと、人の心の働きには理屈で説くことのできないひとつの経験がある。その経験というものを経てこなければ人間というものの生命がのらぬ。形式になってしまう。その経験にふれたならば、形式そのものさえも変わってくる。そして生命が流れる。その経験ということのみに力を集中してかかろうというのが禅である。
我々の心というものは、自分が注意し、記憶している以外に、自分の心の働きがあるものだということになる。これは心理学上の事実である。 この事実を宗教の方面からどう見るかというと、 自力というのは、自分が意識して、自分が努力する。他力は、この自分がする努力はもうこれ以上にできぬというところに働いてくる。他力は自力を尽くしたところに出てくる。窮すれば通ずるというのもこれである。意識して努力の極点に及ぶというと、もうこれ以上はできぬと思うところがある。ここを突破する、いわゆる百尺竿頭一歩を進めるというか、とにかくも一歩を踏み出すというと、ここに別天地が拓けてくる。そこに自分の意識していなかった力が働きでる。それを真宗の人は他力と名づける。禅宗のほうでは大死一番ということになる。心理学の立場から言えば、同じく心理的経験であるから、その知的立場においてこそ相違すれ、経験の事実においては、同じ現象であるといわなくてはならぬ。真宗といい、禅宗といい、その説明するところは、非常に違うけれども経験そのものを、心理学の上から研究するにおいては、私は何も変わった事はないことと思う。これを意識化の精神活動ということに当てはめたいと思う。
宗教経験の諸要素
苦ということ 仏教においては、第一に人生は苦であるということを認める。その苦しみというものは何からきたかというと、いろいろの原因を集めてきたから苦しむのである。それを滅する方法があるか。それを滅するには、いろいろそれぞれの道がある。こういう風に、仏教の論理の立て方は、すこぶる組織的になっている。 苦の原因は欲である。欲には限りがない。欠けていれば欠けたで苦しみ、満つれば満ちたで苦しむ。人間は畢竟して苦しむようにできているのであろう。苦しみのないようにするには、その欲を除いてしまうよりほかに仕方がない。しかしながら、求めてやまないその欲を取ってしまうということは、人間としてはできにくいことである。 自分が苦しむということは、自分というものは終局のものであって、それで他のものとは、連絡がつかぬということになっているとき、ここに苦というものを感じてくるのである。その苦を逃れるということは、自分というものが、究極のものでなくなって、自分というものは、自分よりも大なるものに包まれている、全体(神といってもよいが)なるものの一部分と見るときに、この苦しみというものからのがれられるのである。自分は、より大なる関係のなかにいるものであるという風な自覚が出てくると、そこにひとつの宗教経験がある。そうすると苦というものが隠れてしまって、生きているということの意義がわかるということになる。 |
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