「禅とは何か」What is Zen? より
昭和二年 鈴木大拙
第1回 宗教経験としての禅
第1講 宗教経験とは何か
宗教を成立せしめていくものは、個人的宗教体験である。
宗教はこの体験というところまで入ってこなければ、真の妙趣は味わうことができない。
体験とは、我々の主観が一定の態度をもって(主観が確定して)内外の境界に臨むこと。
主観の内外界に対する態度が一定しないとき、精神的不満が起こり、心が不安定になる。
人間は神と動物との中間にぶら下がっているからして、そこに我々の精神的不安なるものが付きまとって離れないのである。
中ぶらりんになっている石には不安が絶えない、人間もそれと同様であって、心の内外に対する主観の態度が確立一定せぬ以上は、どうしてもこの精神的不満がやまないのである。
またわれわれが精神的不満を感ずるということには、その反面にすでに満足を感じているということをも同時に意味している事を忘れてはならぬ。「答えは問いの中にある。」疑いの裏には信があるというのである。不満のあるところ、すでに満足の可能性がある。
苦しいということに気がついたときには、すでにその苦しみの中に楽しみが芽を出しているのである。苦は畢竟して脱せられ得るのである。
「在る」と「ありたし」という二つのものがとかく矛盾衝突して、不安や苦が生ずる。
すべて人間はは自己分裂を感じ始めたところに宗教心の芽生えがあるのである。
人間には内面的な分裂というものがある。これを救うべき方法は、宗教による回心(えしん)である。回心とは俗にいわゆる窮して通ずるということである。窮地から忽然として脱出する。禅宗はこのことを悟道といい、他力宗では安心(あんじん)を得たというのである。
禅宗はどこまでも知的な宗教であるからして、これにはいるにはいずれにせよいくばくかの知識が必要である。他力本意の宗門ではこの知識ということを全然排斥するが、しかしその知識を排斥するところまで入って行くには、かえって無非常な知識と非常な努力とを必要とするのである。知識の無用が考えられるのはただでき上がった人、回心の人々からみての話なのである。
宗教そのものに知識は不要であるが、しかしそこまで入っていく前提としてどうしても知識の必要なることが認められるのである。釈迦も悟りの境地に至るまでには、四諦十二因縁というような苦しい途を通ってこなければならなかったのである。これがなくては、すなわち知識の苦しい修練というものがなくては、回心と悟道もできないのである。
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宗教は理屈ではなく、体験であるということが一般の勉強とまったくちがうことである。 |
その体験を得るためには仏教について学んで知識を得なければならない。それを私は修行とか仏道と言うものだと思う。そのような、努力なくしては体験も浅いものになると思う。
第二講 何を仏教生活というか
どうして禅宗や真宗を仏教といえるのか。真宗においては南無阿弥陀仏と称えると極楽往生するという。こんなことは、原始仏教として伝えられているところの経典には、その形跡は少しも見ぬのだ。
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それでは、仏教とはいったい何なのか。 |
仏教の構成分子
第一 仏の人格は光
仏の人格というものが仏教という命題を構成しているところのひとつの重要な因子である。
舎利弗が答えて曰く、釈迦から教えを聞いた、そしてその教えを聞いたがために、私は安心を得たというのである。その結果としていわゆる徳は身を潤すということになったのである。
まず、教えが本当でなくてはならぬが、その外にその言っているところのものの人格が、その真実の中に加わってくることが必要である。論理や事実の上に、人格が加わるというと、われわれはその説以外に一個の圧迫を感じてくる。つまり、信じなければならぬというような心持をさせられてくる。しかも、これが一番大事なことなのである。これが一切の宗教をしてただ教えということだけではなくて、どうしてもこの人格というものの加入を必要ならしめるゆえんなのである。
教えだけではいかに真実でも決して十分でない。そこに尊いということがなくてはならぬ。道の広まるのは、その教えによるのではなくて、その人によるということはもちろんで、人格というものがそれに加わるというと、二と二は四になるものが、五になるという事実が生じてくるのである。これが信ずるという奇跡なのである。また、これが人格の力の不思議なところである。人格というものは心理以上の一つの力を持っている。矛盾があっても、多少不合理なところがあっても、そこに人格なるものが加わるというと、それを肯定するところの働きが、自然に含まれてくるものである。私どもは畢竟するに,こんな塩梅に仏教を信ずるのである。
宗教の広まるには人格というものが入らねばいかぬ。親鸞聖人は、「自分は法然上人の言葉を信ずるだけだ。地獄に行っても極楽に行ってもよい」と言われている。この人をして絶対の他力をたのましめる、如来の人格の力と言うものが、すなわち宗教の背景をなすものである。仏教と言うものを信ずる上においては釈迦の人格を離れておったならば駄目である。これをいかにしてもその中心におかなければならぬ。ときどき、禅宗の人は,道と人は別物であるかのように説くが、それはまだ本当の道を知らぬのである。禅が一種の哲学組織なら、とにかく、そうでなくて宗教だと言うなら、最も人格の力を背景に持たなければならぬ。
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仏教には法や教えだけではなく、それを伝える人格が必要であるという。
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第二 釈迦の経験 成道と涅槃
第三 教え ダルマ
第四 仏以後の仏教者の体験を加える。
ここにいたって仏教というものが初めて生きてくるのである。
仏教の生命
仏は原始仏教を成立せしめているのではあるけれどもこれだけでは水が十分に流れない。そこで、後世人がその流れの中に自分のものを加えて、従来の偉大さを、持続すると同時に、さらに何かまた勢いを加えていく、こういうことにならなくてはならぬ。これにはわずかに寄与したものもあり、あるいは大いに寄与したものもあるかもしれない。
われわれのような下らない者にしてもやはりその流れの中に幾ばくかの力を注いでいる。この世界にいかなる大人物というものが出てきたとするとも、それに比べて末輩下等といわれるものでも何の必要もないものとは決して言いえるものではない。その大人物というものの下を歩いてほとんどなんらの役にもたたぬものと思われるところの人間たち、そうした人間達がいないというと大人物も活躍ができない。それを活躍させる糧となって、しかも何にも目に立たぬところにいて、そして大いなる仏教そのものを動き出さすということになる。つまり、それで役に立っているということになる。小さい仏教者であるといっても、そこに一人の仏教者がいるならば、それだけ、そこから大人物を引き出させる機会が備わっているというわけである。それが土台となって、その上に仏教の大伽藍というものを据え付けるのである。その土台になる大衆なるものが、広くなかったならば、その上に居座るところの人物というのも大きくはないのであって、役に立たない。だから仏教というものを、ただ仏の教えとか、仏の体験というものに限らずに、仏教との生活の体験というものを、大きい者は大きいなりに、小さいものは小さいなりに、仏教という主なる流れの中に注ぎ込む。大きい者の流れは立派で小さいものの流れは立派でないとは言い得ない。これを山を造るにたとえるとよい。大人物は一度にたくさん土を盛り上げるとするならば、われわれはほんの一片か二片の土を加えるようなものである。しかし、加えないというのではない、一片だけでもそこの盛っているのである。したがってそれだけの力をのせているはずである。そのように考えていくと、仏教はあくまでも生きて進展増大するものであると、こう見てよいのである。生きたものと見なければ、宗教は死んだものになってしまう。「仏教の流れからわれわれは栄養分を取ってそれによってわれわれを栄養し、その成果をさらにその流れに注ぎ込んでいく」、私はこういう風にどうしても考えなければならぬと思っている。仏教生活とは、その宗教的意識の流れの中に自分の力をば加えていくものだということになる。
その関係はただ個人だけに止まらず、直ちに仏教というものの中に、大いなる影響を及ぼすものであると、私は考えている。いま、静かな力と動く力というものがある。静かなもの(伝統の教え)も大事であるけれども、動くということもまたよほど大切なここと思う。今まではこういうようなことは忘れがちであった。それは、動いて行くという方面を見ようとはしないで、ただ仏の教えというものを、そのまま守っていくというのであった。けれど、そうでなくして、この仏の教えというものもだんだん延びていくものである。働きが強くなっていくものである。内容が豊富になっていくものである。そして、こういう風に考えると、仏教というものは、いつも一つの型を守るものではない、いろいろの型をとって現れていかねばならぬものである。
それで経文というものがいろいろにできていっても構わぬということになる。ここにおいて禅宗というものが出てきても、真宗というものが出てきても差し支えないということになるのである。
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仏教がただ過去の教えだけのものではなく、それに現在の人の思想も加えて常に新しくなければならない。仏教が古臭いのはわれわれが怠けている証拠かもしれない。そして、小さな一個の自分ではあるが、その自分の存在がなければ偉大な人の存在の意義もないという。どんなに下らない自分であってもその存在意義があるという。実にうれしい見解である。鈴木大拙の解説の中によく「われわれのような下らない人間」という言葉が出てくるが、大拙自身をも含めてそういっていることがたいへん面白いと思う。 |
仏教生活というものの中心をなしているところのものはこの三菩提、すなわち正覚ということでなくてはならぬ。
そして正覚を成じたという後で、真宗ではどうなるかというと極楽にじっとはしておられぬ、この世間に再び還ってくる。これを還相回向という。極楽に行ったならば、正覚を開いて、そこからまたこの世界に生まれ返ってくる。これをもって私は真宗の終極の目的であると思いたい。そしてこれが仏教において、もっとも大事なことであると私は言いたいのである。
仏教の知と社会性。
社会性がなければ、今日まで仏教は生きてこなかったのである。四弘誓願(しぐぜいがん)の初めの偈文、衆生無辺誓願度である。
釈迦が成道したときに、「奇なるかな奇なるかな、一切衆生草木国土ことごとく如来の徳相を具有す」と叫ばれた。ここに、正覚というものの光が出てくるのである。
馬鹿と天才の差は表現できるかどうかだけの差である。だから表現というものをしなければならぬ。知るというだけにとどめてはならぬ。これにわれわれはいろいろの説明というものを加えなければならぬ。それでいろいろの経文というものができてきたのである。
第三講 仏教の基本的諸概念
第四構 証三菩提を目的とする禅
科学というものはまことに結構なものである。われわれの生活というものが便利になり、ものが安直になり、昔は大名か大金持ちでなければ、手に入れることもできなかったようなものが、今はわれわれ誰もが平等に口に味わい、身に着けていることができるのである。その点はまことに結構であるが、それと同時に人間がことごとく人形になってしまった。機械になってしまった。これは私は近代文明の弊害であると思う。機械を使うというと、人間が機械になるのではないことはいうまでもないが、人間はまた妙にそれに使われる。使うものに使われるというのが、人間社会間の原則であるらしい。人間が機械をこしらえて、いい顔をしている間に、その人間が機械になってしまって、その初めに持っていた独創ということがなくなってしまう。近代はますますひどくなってその弊害に堪えぬということになっている。
この弊に陷らざらしめんため、宗教がある。宗教は常に独自の世界を開拓して、そこに創造の世界、自分だけの自分独特の世界を創り出していくことを教えている。宗教によってのみ、近代機械化の文明から逃れることができると私は思う。それでますます宗教というようなことを、どの方面からでも説明のできるような具体性と創造性を兼備した、この禅ごときものを、ますます今の世界に広めなければならぬ。ただインド的禅定というもののほかに、また中国的活動の禅、創造性の禅を鼓吹したいと思うのである。また、それと同時に、物を離れて物を見る、この機械となっている世界を離れて、別に存在する世界を見る、すなわち物の中にいて物に囚われぬ習慣をつけておかなければならぬと思う。朝から晩まであわただしい、機械化した生活から一歩退いてその圏外に立って、この世界を見るということができねばならぬ、すなわち坐禅をしてみるというだけの余裕ができなければならぬと思う。そういう機会を忙しい忙しいと言いながらも、やはり何とかして作っておくほうがよかろうと思う。
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これは昭和二年の講義であるが、この最後の部分などは、まったく現代に通じるものがある。大拙が言うようにまさに、仏教は常に新しいものでなければならないということがはっきりと示されているように思う。このように、まったく自分が考えても見なかった仏教に対する解釈を教えられた気がする。ある人々はあまりの独創さにあきれるかもしれない。しかし、私にとっては仏教というものの現代的意味を考える上で、暗闇から光が差し込んだような気持ちにさせられるのである。今までの自分が自分だけの狭い考えの中にいたことがよくわかる。西洋文明の限界が見え始めた今、われわれはもっと日本の歴史に隠れた偉大な思想をほじくり返すことで未来に対する答えを見つけられるのかもしれない。
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