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「禅とは何か」What is Zen? より 昭和二年 鈴木大拙 宗教経験の諸要素 儀式、表現ということを抜いてはいけない。表現があって、初めてその心の動き方というものが、完全に動いたものと考えてよろしい。 お寺の今日衰微しているのも、その精神というものが、どこかになくなっているからであろう。 その宗教の中にある、本当の心をもって、すべてを受け入れるということになれば、その儀式を通して、その表現を通して、今日でも生きた仏教に出会うということがあると信ずる。 第二講 宗教経験の諸型 知性というものが進むとどうなるか。それは自分で自分を殺すということになる。自分というものを自分が鏡に照らしてみることができるのは結構であるが、同時にその人は死んでしまったといっていい。それで孔子は日に三度反省するといった弟子に対して、それは二度でたくさんであるといった。あまり考え過ぎるというと、なを及ばざるが如しということになってしまう。 第三講 宗教としての仏教 宗教の神秘的経験 道元禅師の言葉でいうと、この世界の様子を見ると雲の通り過ぎるようなものである。 人生というか、自然の世界においても、人間の生活においても、いろいろであるが、ただそこにひとつ自分の心の中に留めて忘れられないことがある。それはいわゆる深草の閑居の夜の庵で聞いた、雨の降る声であると、道元は歌っている。これは白隠和尚の雪の響きを聞いたのと、心理的には共通のところが有る。 われわれ凡人には、雪の響きを聞いても、雨の声を聞いても、そういう感じもしなければ、どこに忘れられないことがあるのか、想像もできないが、その境涯にはいった人、いわゆる自分の列よりもさらに以上の方向にひとたびとびでたことの経験のあるものならば、その心持を味わうことができるのである。これがないと宗教の神秘ということは成り立たぬ。神秘ということは、隠しているということでなく、また言わずに黙っているということでなくして、了々として雪の響き、雨の声を聞くことができるのであるが、しかもそれを表すことができない。他に伝えられぬところがある。 このような神秘的体験というものが宗教にないというと、宗教はいわゆるわさびの気の抜けたようなものになる。
第四講 楞伽経(りょうがきょう)大意 禅宗には所依の経典はないのであるが、経典として最も関係の深いものは、楞伽経である。また、般若心経とか金剛経とかいうものもある。 経典として禅宗と最も関係の深いのは、楞伽経である。楞伽とは場所の名前である。その楞伽で説かれたお経ということである。
中略 楞伽経の説く自覚聖知ということ
古いものから新たなるものができてきたとなると、本当の新しいものはないということになる。しかし今までなかったものができたとすると、即ち、あっても、今まで気がつかずにいて、それが今気付いたとすれば、それは古いというものでなくて、やっぱり新しいものであると見るべきであろう。そういう点からみると、何でもみな古いものである、また新しいものである。仏教においても、やはり皆、これ日に新たにして、日々に新たな理ということになって、古いものはない。すべてのものが新たにとなって、その時その時に創造されていく。われわれは刻々に創造していくのだ。神は天地を創ったが、その天地が今まであるものとすれば、ずいぶん古いものである。が、その実はわれわれがおのおの神となって、この古い天地なるにもかかわらず、それを日々に創っていくのである。われわれが実際の天地の想像主となるのである。そうすれば一挙手、一投足というものが、ことごとく新たなる創造的意義をもつことになってしまう。こういう風に考えを続けていけると思う。それで自覚聖知というようなことに気がつくということも、そこに新たなる創造ができたということになる。それで何でも物は、時間と共に豊富になっていく。この自覚聖知ということが楞伽経の生命であった。それがあったから達磨が見込んで、これが禅の骨子であるという風に言い出した。自覚聖知ということは、楞伽経の中心思想である。 自覚聖知ということは、どんな意味か。それは自分で体験するということである。人から教えられないで、自分でやるということである。自分でこうだと、ひとつの事に気がつく、これが禅宗の根本である。それが楞伽経の自覚聖知ということを、本に立てている所以である。
不思議だと思えることも、これは不思議でもなんでもなく、自分の心の働きである。自分の心の中からすべてのものが作られるのである。すべてのものは唯心の所造である。いわゆる唯心論である。こういうことが、楞伽経には書いてある。それで自覚聖知ということは、何を自覚的に見るかというと、すべてのものは、自分の心ひとつに納まると自覚するのである。阿頼耶識も、如来蔵も、仏の心の現れである。自分の心の現われであるというと、すべてのものが阿頼耶識となる。仏の所造所見というとすべてが皆如来蔵となる。自分もその中に入っている。いずれにしても差し支えない。 こういう風に私は考えていきたいと思う。哲学もないことはないけれども、それよりも、宗教的に、理屈を言うのでなく、それを悟る、体験するというところに、着目しなければならぬと思うのである。
最後に禅宗に「十牛図」というものああるので、これについて蛇足を加えたいと思う。 まず、牛を探す「尋牛」がある。探すということが修行の第一歩にたとえらるる。ところが、このたずねるというのが、そもそも誤りの本で、種々の面倒はこれから始まる。実はなくしていないものを、なくしたと思って探しているのである。 第二に「見跡」、第三に「見牛」、第四に「得牛」、第五に「牧牛」、第六に「騎牛帰家」で、牛を見つけて家に帰ることになる。ところが、家に帰ると第七の「忘牛存人」となり、突然に牛は消えうせるのである。その次に、第八の「人牛倶忘」牛のみでなく我をも忘れて、すべては何もなくなって消えうせてしまうのである。これが、さらに一転化すると、第九の「返本還源」となりすべては元に戻り悟りを開くことになる。最後の第十は「入てん垂手」ということになる。この第十の境地がなければ、即ち悟りを開いただけでは宗教とはいえないのである。自分ひとりが悟っただけではなく、今度は衆生を救わなければならない。自利はやがては利他でなければならぬのだ。これが仏教の眼目であって、仏教徒は事の世界、差別の世界に出て、人の中に入って、そして本当に救済の事業をしなければならないのである。学問のある人、金のある人、それはその人のみのものでない。その学問、その富の力というものは、ただ自分のために使うべきものではなくて、人のために使うべきものだろうと思う。そうなるとここにじっとしているわけにはいかぬ、外に出て働かなければならぬことになる。宗教だからといって、ただ個人の安心にのみ資すべきではなかろう。そんなことだけにやすんじては、本当の菩薩行はできぬ。それで十牛図というものは、この点について、よく人間の精神の発達ということ、人格の円満ということなどを、まことによく図解で示しているのである。言葉でいうよりも、この図を見るとなるほどと納得ができる。 (昭和二年から三年にかけて大阪妙中禅寺にてなせる我が講演の筆記をまとめたのがこの所である。 鈴木大拙。)
参考:道元禅師の正法眼蔵 座禅儀の巻
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