清少納言
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清少納言の悲しみ     

梅原猛「古代幻視」より

 

もしも『源氏物語』を「あはれ」の文学としたら『枕草子』は「をかし」の文学というべきであろう。そしてそこには笑うという言葉が実に多く出てくる。それは宮廷社会の宮女たちの、あるいはけたたましい、あるいは忍びやかな笑いである。笑いは『源氏物語』にないわけではないが、『枕草子』には甲高い若い女の笑い声が絶えず響いているようである。しかし、我々は彼女の明るさ、彼女の笑いの奥にあるものを見落としていはしないか。彼女は一切この暗い現実について語っていないように見えるが、果たしてそうであろうか。

書物には題名というものが大切である。なぜなら、題名は書物の内容を最も的確に表現するシンボルであるからである。『枕草子』という題名は清少納言自らがつけたものである。それ故、その題名こそこの『枕草子』の内容を最も的確に表現するものであろう。

本文を見ていこう。

 

物暗うなりて、文字も書かれずなりにたり。筆も使ひ果てて、これを書き果てばや。

この草子は、目に見て心に思ふ事を、人やは見むずると思ひて、つれづれなる里居のほど、書き集めたるに、あいなく人のため便(びん)なき言い過ぐしなどしつべき所々あれば、清う隠したりと思ふを、涙せきあへずこそなりにけれ

 

(現代語訳)

なんとなく薄暗くなって、文字も書けなくなってしまっている。筆も使い尽くして、これをすっかり書き終えたいものだ。この草子は、私に見え、また私のこころに思うことを、よもや人が見ることはあるまいと思って、所在ない里住いの間に、書き集めてあるのだが、全く無意味なつまらぬ事ながら、人にとっては不都合な言い過ごしなどもしてしまいそうな個所がいくつかあるので、見事きれいに隠してあると思っているのに、気がついてみたら、『涙せきあへず』の歌のとおり漏れてしまっていたのだった。

 

この「涙せきあへず」という言葉は「古今集」巻十三恋歌三の「枕より 又しる人も なきこひを なみだせきあへず もらしつる哉」という平貞文の歌によっている。つまり、枕以外には、私の心の中にある恋の心を知る人はないが、その隠していた恋心をあふれてくる涙が漏らしてしまったという歌である。

彼女は極めて陽気に振舞い、彼女の心の奥の涙を隠したのである。

このように見ると枕とは、独り密かに自分の隠された心を知るもの、深い涙を隠しているものといえる。「枕草子」とは、隠された涙の草子であったのである。

彼女は機知に満ちた軽いエッセイに涙なくしては語れない「歴史の真実を書きたい」という真意を隠したのである。

清少納言が枕草子を書いた目的は、彼女の心奥深く隠された今は亡き主君、中宮定子に対する深い思慕を語るためであった。『枕草子』は密かなる彼女の涙にぬれた草子であるといえる。

 

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