孤村のともし火
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平成20年3月23日 石川県七尾市に用事があり自動車で行った。今回は東海北陸道(東海北陸自動車道 飛騨清見IC〜白川郷ICが2008年7月5日に開通)を利用するので、途中世界遺産で有名な合掌の里白川郷に立ち寄ることにした。その少し手前に白川村御母衣 旧遠山家民族館がある。初めて茅葺の家に入る。まだ根雪の残る山里であるが外は春の日差しで暖かい。しかし家の中に一歩入ると薄暗く外よりもずいぶん寒い。外より家の中のほうが寒いのに驚いた。その囲炉裏の周辺だけが暖かくほっとさせる。奥には貧しい山奥に不似合いとも思える立派な仏壇があり、その信仰の深さがうかがわれる。収蔵品を見ているうちにきびしい生活の中で家族が協力して生きてきたことを想像し てみた。現代の核家族化の進むなかで大家族のよさは失われてしまった。大家族での生活は古きよき日本のひとつであろう。また、つぎはぎだらけの衣服の展示を見たとき、宮沢賢治の言葉が思い出された。(ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました)
 ここが世界遺産たる所以は単に合掌造りの建物のすばらしさではなく、そこで暮らす人々の生活そのものであると思った。


 孤村のともしび
 海野金一郎
深山も古里なればこれ地上の楽園 ともし火細くとも睦みて 太古永遠を語る
この里に老いを養うて青年は去らず 道を開けど木を売らず
山に古木繁れば 財乏しくとも 心豊かなり
土地を拓いて田畑作り自活するは これ天の理に従うなり
父祖の財を売るものは 自らをほろぼしてその里をも失う
果樹を植えて力を養うべし 鶏鳴を山中に聞くべし 星を眺めて生命を楽しむべし
深山の孤村にも 日月訪ねる 牛馬の瞳にも太平の光宿る


 
   白川郷野外博物館 合掌造り民家園 中野義盛家母屋 掲載

 合掌造り民家園にこの詩が掲げられていてそれを読むうちに思わず涙があふれてきた。早速売店でその本を買った。

 ゆっくりその本のページをめくる。まず白黒の写真が目に入る。いずれも初めて見る人々の顔であるが実に柔和で、それだけで胸を打たれるものがある。それは現代人の忘れたなつかしい顔のように思った。読み進むうちに、涙がとめどなく流れ、私の目はその日一日中真っ赤になってしまった。それは悲しみの涙ではなく、生きるということの感動に触れたためかもしれない。
 


1. 秘境 加須良再訪 海野金一郎 (医師) 「飛騨の夜明け」より
 昭和55年 農山漁村文化協会出版
 

私は加須良を二度訪れた。最初は昭和十六年、二度目は昭和十八年である。以下、二度目の訪問を中心に記すことにする。
 加須良は、飛騨山中にある。加須良部落へ行くには、いずれも、土地の人たちだけが知っているわずかな踏跡に過ぎない。壁のような崖の中ほどに道らしからぬ道があり、足を滑らせたりしたら、渓流まで落ちてしまうだろう。この難渋なコースが加須良への道であり、この険阻な山の奥に部落があって人が住んでいる、大変なことだと思う。
越中桂部落と飛騨加須良部落は、もと、かづらといってひとつの部落だった。渓流から岸に上がるあたりで空があけてくる。どこか人里の気配が感じられてくる。畑に人の働く姿が見える。私は、久しぶりに人間を見たような気がした。桂部落は三年前と少しも変わっていなかった。子供たちはひとところに集まって、大きいのから小さいのまで出迎えていたかのように並んでいた。ほとんど訪ねるものもないなかで、かれらにとって珍しい、うれしい出来事なのだろう。

向こうのほうで草刈をしていた山田要蔵老人が「おお、おお」と声を出してこちらにやってきた。「おお、よくこられた。あなた様にまたあえてありがたい。もう、わしはいつ死んでもいい」といい、「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と念仏を唱えて私に合掌してくれた。何百年もの昔の古びてすすけた合掌造りの家に、老人は喜んで私を迎え入れてくれた。
その昔、この家に蓮如上人がお泊りになったという。一家は深く仏教を信じている。私が何を言ってもいちいち感心して、「おお、あなた様は蓮如さまとおなじだ。ありがたいごっじゃ。なんまんだぶ、なんまんだぶ」と、繰り返して私に合掌する。ありがたがるのでかえって恐縮するばかりだった。桂、加須良両部落の人々は、深く仏教を信じている。とくに老人たちは、だれもがみなくちぐせのように念仏を唱えている。見るもの聞くものすべてに仏を感じるというふうに思われるくらいである。
 加須良部落七戸のひとたちは、みな一家族のように、どこの家にもへだてなく出入りし、子供たちはどこでもわが物顔に自由に振舞っている。七百年来、かずらのひとたちはお互いに頼り頼られてきたしこれからもそうであろう。山野、河川の産物が豊富で、自給の食糧はほぼまかなえるから、ひとは穏やかである。
深い山中に住む人々は、物の乏しさにはさほどこだわらない自然の中での豊かな生活を営んでいるが、それもみんなが健康であるうちのことで、病気になったり死人が出たりすると、たちまち悲しみのふちに突き落とされてしまう。
重病人が出ると医者のいるところまで部落の人々が総がかりになってひとりの病人を送り出すのだ。これは、よくよく病気が重くて苦しむときに限られる。
 人が死んだとき、村人たちは死体の検診を受けるために遠く山川を渡って医者を迎えにいくのだが、医者の来られぬ奥地では、死人を戸板に乗せ村人が総がかりで担ぎ出す。そして、死体の検診を受け死体検案書をもらってのち再び死人を山奥に運びかえり、これを葬る。こういう地方の人たちは、医者は死体検案書を書いてもらうことのためだけ必要であると思っている。死人を葬るためには医者が必要であるが、病気になっても医者にかかれるものとは思っていない。しかしそれは、いのちに執着を持っていないからというわけではない。
 医者の死亡診断書がなければ、死人を葬ることはできない。病気になったら医者の診療を受けるべしという法律はない。しかし、医者の死亡診断書や死体検案書(変死でないことの証明)がなければ、死人を葬ることはできない。法律は山中においても厳しいのである。
 冬、雪に閉じ込められて交通が途絶してしまっても、みんなが健康であればほそぼそとながらともし火をともして春を待つことができる。しかし、誰かが病気になったり死んだりすると、部落は救いのない暗い世界になる。
 

2. 孤村のともし火
 私が前回訪れて以来、加須良には医者は一人も入っていない。この間に、4歳の女の子が死んだ。昭和十七年十二月十日のことである。9ヶ月たっているのに、まだ葬っていない。医師の診断書も死体検案書も手に入れることができないからだった。子供の両親は、それを苦にして心身ともに弱りきっていた。
私はその日、事情を詳しく聞いた。
その年の11月下旬、その子は風邪を引いた。素人判断でも肺炎と思われた。深山の孤村には雪が降って折りしも豪雪である。ひとびとは病の重い子供を抱えて、思案に悩んだ。子供は呼吸が迫って苦しそうだった。衰弱して目を閉じたままだったが、やっと目を開いてあたりを見渡したので、人々は喜びみな笑顔を浮かべた。人々をほっとさせた女の子は、枕辺に集まった部落の子供たちに手を振って、「さようなら、さようなら」をした。そして、まもなく目を閉じて静かに息をひきとったのである。幼いながらも、別れを知っていたのだろうか。息をひきとったとき、死人の名を呼ぶと生き返ると信じて、部落の人々はかわるがわる子供の名を呼びつけた。「エツ子ー、エツ子ー、エツ子ー」これがひとびとの最後の手段だった。部落の人たちは残らずこの家に駆け込んで行った。元気だった子がたった十日あまりのうちに医療も受けない自然死に襲われて消えていったのである。
部落7戸の人々はみな集まった。人々は炉の周りに集まり、ともし火代わりの焚き火で愁いに沈んだ顔が赤く照らされていた。
 人々は夜遅くまで相談した。積雪が深くて医者を迎えることは困難である。といって、死体を医者のところまで運び出すのはなおさら難しい。しかし死人をこのままにしておくことができない。結局、医者を連れてくる使者として二人の男が選び出された。
着ぶくれるくらい重ね着して凍てを用心し、蓑で身を固めかんじきをはいて雪の峰伝いに白川村へ向かった。この峰続きは道ではない。冬はなだれが恐ろしいから谷間も山腹も通れない。雪が積もった山の尾根をたどって迂回するよりほかないのだ。10人の見送りの人たちは、雪を叩き落し倒れた木を持ち上げて道を切り開いていく。加須良から医者のいる荻町部落までは12キロ余りなのだが豪雪の中遠回りで二日かかってしまうのである。
二人の使者はやっと医者の家に着いた。蓑(みの)を取り、あらたまって医者を訪ねると、対応に出たのは夫人だけだった。二人は事情を詳しく話し、無理を承知で加須良までの往診そして死児の検診を、嘆願した。しかし医者はあいにく留守であった。二日がかりで雪山を超え雪崩の危険を冒してきた二人は、落胆し途方にくれた。部落のひとたちは大勢で蓮如岩まで雪道を固めて迎えに来ているはずである。
 やんでいた雪がまた降りはじめた。日が暮れかかり暗くなってきた。この雪が今夜一晩積もれば、加須良に帰れなくなる。医者に会える当てがないとすれば、一刻の猶予もなく帰途につかないと来春雪が消えるまで帰れなくなってしまう。二人は急に落ち着かなくなってくびすを返した。
 部落の人々は総がかりでかんじきをはいて雪を固め、蓮如岩まで出て二人の帰りを待っていた。朝から15時間、寒い峠で待機し、雪のかなたにいつ二人の黒い影が現れるかと見つめていたが、いつまでたっても現れない。夜は更ける、寒さは増す、みなはあきらめてひとまず部落に帰った。
「どうしたもんだかな。医者に頼んでもかなわなかったんであちらに泊ったかな」
「この雪では明日の朝まで待って帰ることはできんと思うが、」
「万一の間違いはないかな」
 人々は、炉の焚き火を囲んで心配な一刻一刻を送っていた。夜の十一時、戸口に物音がして人の気配がした。二人の使者は帰ってきた。
 「帰ってきた!」みんなは思わず叫び、戸口にどっと集まって無事の帰還を喜んだ。二人は、疲労と寒さと目的を果たせなかった失望のため、半死半生のていで倒れこんだ。
皆の介抱に元気を回復した二人は、「医者は来てくれる見込みがない」と、語った。
「死んだものは仕方がない。みなに大難儀をかけてすまなかった」死児の親たちは、はなみずをすすりながらつぶやいた。雪は降りしきって峠の行き来は完全に途絶した。翌年まで部落は積雪の中に閉じ込められることになった。
翌朝、子供の死体を加須良川の岸まで運んだ。墓場に埋葬したのではない。雪の中に放置したのだ。わが子はいつまでも家の中に置きたいのはやまやまなのだが、これは仕方のない処置である。吹雪にあおられるなか、女の子の死体を川辺においてみな泣きながら家に帰った。
 騒ぎが終わって、加須良部落は雪に静まり返った。合掌造りの家から部落の人たちが集まって唱える念仏、和賛、御詠歌などが夜、哀調を帯びて漏れた。
 翌年(昭和十八年)三月に入ると、寒気が緩み雪の消えるところから黒土がみえはじめた。春の訪れを待ち、明け暮れを苦悶の中にすごした父親は待ちかねたように山を出て医者の元に急いだ。彼は事情を詳しく話し、死んだ子供を検診してほしいと嘆願した。医者は話を聞いていたが、「自分の体力では加須良までは行けない」と言って、どうしても承諾してくれない。父親はがっかりして加須良に帰った。四月になった、父親は再び医者を訪ねた。
「先生様においでを願わなければ死んだ娘を葬ることができません。先生様よりほかに御頼りする方はありませんので、どうか娘のために、先生さま、お願いします」
医者は首をかしげていたが、「明日来てくれ」と言った。
その言葉を聴いて父親は12キロあまりの坂道を疲れも知らず喜び帰った。
 翌日、朝のあけるのも待ち遠しく加須良を飛び出し、医者の家まで駆け込み、昨日の礼を述べて医者の返事を待った。すると医者は「行かぬとは言わぬが、このたびは行けない」というのだった。父親は落胆した。雪が解けて雪崩の恐れがなくなる。死んだ娘を背負い山から出て医者に見せ死体検案書を書いてもらって葬ることもできるようになったわけだが、死後すでに六ヶ月たっている。父親は娘の死体を確かめることもできないままに、日が過ぎていった。
六月中旬、たまりかねた父親は村役場を尋ね、村長に助力を求めた。役場は医者と交渉したが、「自分の健康が許さないし、手放せない急病人があるから行けぬ」という返事である。役場はこれを部落の問題として粘り強く頼み込んだ。医者はついに折れて、7月5日に行くと約束した。親たちはいうまでもなく部落の人々はみな喜んだ。往診の約束を取り付けた役場の人々はその努力の成果に誇らしげだった。加須良では、医者を迎える準備を進めてその日を待った。しかし、約束を受けた医者は、6月23日、服毒自殺したのである。この医者が不測の死を遂げたために、飛騨山岳地帯の一角、白川郷には東西南北たった一人の医者もいなくなってしまった。
 交通不便な生活環境、孤独感。立ち遅れ感による精神的苦痛に覆われた日常、単独で日夜の区別ない活動を強いられるところから来る疲労感、こういった無医村特有の悪条件に耐えられず自殺したのだろうか。この医者は二年前に着任したばかりの新しい医者だった。無医村での医療解決の一助とすべくやっと一人の医者を見つけた白川村は、ふたたび、山中に取り残された無医村になってしまった。加須良の人々は医者の死を聞いて、みな驚いた。
「医者が死んだのか」「医者が死んでしまってはどうにもならんごっじゃ」
 女の子の死体をかかえる両親は力が抜けてしまった。7ヶ月前に死んだというのに、この先何年たてば埋葬できるのか、その見込みも立たなくなってしまった。戸籍から消すこともできず、死んだものがまだこの世に生存していることになっている。川辺に放置した娘の死体はどうなっているだろうか。娘は成仏できないで冥土に旅立ちかねて迷っていないか。眠れない夜は、川辺で生きている娘の姿が目に浮かぶ。「娘は生きているかもしれない」と思うと、本当に生きているような気がする。娘は泣きながら親を呼び続けているのだ、と思うと、いてもたってもいられなくなり、夜中に起き上がり、父親は夜道を駆けて笹をかきわけた。
「泣き声が聞こえる」父親は辺りを見回し、耳をそばだてた。「聞こえる、聞こえる」谷川のせせらぎに混じって、親を呼ぶ娘の泣き声が、遠くかすかに聞こえる。やがてそれは細々と消え去り、せせらぎばかりが耳に残った。娘は生きていたのではなかったろうか。小さい手で棺のふたを押し上げようとして、狭い中から親を呼んでいたのではあるまいか。医者を呼んで死亡を確認してもらったわけではない。ちょっと眠り込んだのを素人判断で早合点し、死んだと思い、棺桶にいれ、野ざらしにしたのではあるまいか。「むごいことをした。もっと長く娘を家の中に置いてやればよかった」見回りに来て確かめなかったことを後悔した。いや、ひんぴんとくるには来たが、もっとよく注意して幼子の声に耳を傾けるべきだったと思うのだ。暗闇の中に立ち尽くしていると笹の音がした。われに返って振り向くと、老婆が懸念顔で立っている。「生きているはずがないのだ」「いや、生きていたかもしれない」「なぜ生死を確かめないで、ここに捨てた」久しきにわたり死亡届も出さず、死体を放置した。今となっては病死かどうかも不明である。疑いをかけられて官憲の手がまわるかもしれない。ひとのよい父親は、二重の責め苦に駆り立てられた。こうして9ヶ月、悲嘆と苦悶の連続で親たちはまったく弱りきっていたのだった。
 私は死児の父親の後について小道の笹を掻き分け川辺まで行った。二本の柳があって、その木の下は笹が刈り払われた狭い空き地になっている。黒い土の上に三本の木片が組んである。娘のいる印であり、三本の木は野獣よけのまじないだという。この下に愛娘は眠っているのだった。父親がまじないの木片を取り、石ころをよけると、その下にちょうちんや造花の竹骨が現れた。ばらばらの竹骨の下に重そうに水をふくんだむしろがあって、その腐ったむしろを取り去ると板が現れた。小さい棺桶は、さらにその板の下にあった。棺桶に板を載せ、むしろをかぶせ、造花やちょうちんを置き、その上に黒土をばら撒き、三本のまじないの木が組まれていたのだった。
 今父親は、棺のふたを開いて娘と9ヶ月ぶりの対面をしようとしている。生前の愛くるしい、優しい娘の変わらない顔を見ることができるだろうか。娘は、白い手甲と脚絆、白足袋にわら草履を結び、左手に数珠を持ち、右手に軽い空木の杖を握り、白装束の旅支度の姿で棺に納め棺のふたには釘は打っていない。父親は懐かしい娘の姿に近づこうとしている。今し、彼はふたに手をかけた。ふたの隙間に米粒のような白い塊がついて動いている。無数の蛆である。父親はふたを開き、視線を棺の中に注ぎいれた。白装束に杖を握った幼女の姿はなかった。幼女はいずこに消えてしまったのか。それに変わるものは、見分けもつかない一塊の腐乱した有機体である。顔も手足も区別がつかない。無数の蛆が群がっているばかりだ。死児にはにおいがなかった。腐りきって土に近づいているからである。もし風雨にさらされていたなら、白骨になって残っていただろう。板やむしろに守られていたから腐乱死体になったのだろう。
私は棺の中の腐乱体に注意をとられていて気づかないでいたが、ふと見ると、父親は名状しがたい表情だった。父親は泣いていた。涙が幼女の腐乱体に注がれていた。私は彼の肩に手を置いて「おとうさん、あきらめましたか」とつぶやいた。彼は軽くうなずいた。「検診を終わって安心しましたね」とたずねた。彼は頭を下げた。「私は検診と埋葬について、一切の責任を負います」と私は語りかけた。しばらくして彼は、「死体を火葬にしたい」と、私に言った。蛆が群がっている腐乱体をきれいに浄化したいので、と私も思った。
「エツ子 昭和十七年十二月十日死亡、翌年八月七日届出」
 集まった部落の人たちの手で、死児の薪の上に薪が積み重ねられた。惜しみなく薪は盛り重ねられた。九ヶ月も成仏できなかった娘、地上から解脱できないでいた幼い魂に向かって、天に昇れよ、浄土にいけよと、みなの祈りがこめられているのだろうか。
 仏壇にはともし火がかすかに揺れている。部落の人たちは念仏を唱え始めた。蓮如上人を信仰する村人たちの念仏は、深い哀切の音色となって加須良川の川音と和した。
その晩、明日の別れを前にして私は、次に掲げる詩を部落の人々に贈った。


孤村のともし火
深山も古里なればこれ地上の楽園 ともし火細くとも睦みて 太古永遠を語る
この里に老いを養うて青年は去らず 道を開けど木を売らず
山に古木繁れば 財乏しくとも 心豊かなり
土地を拓いて田畑作り自活するは これ天の理に従うなり
父祖の財を売るものは 自らをほろぼしてその里をも失う
果樹を植えて力を養うべし 鶏鳴を山中に聞くべし 星を眺めて生命を楽しむべし
深山の孤村にも 日月訪ねる 牛馬の瞳にも太平の光宿る

村人は沈痛な面持ちながら、深くうなずいてくれた。だが、この私の思い(詩)についてにぎやかに検討するということはなかった。人々の声も無理して大きくしているように感じたのは私の気のせいであったか。
次の日、部落の人々は私の姿が加須良川の谷間に隠れるまで見送ってくれた。動かないままたっている老婆の姿が目に止まった。死んだ幼女の祖母である。私も再三振り返ったが、老婆はいつまでも動かないで立っている。何かを念じているようだった。加須良川が谷間に入ると、渓谷は直角に切り立ってその底を川が流れている。この渓谷の底を4キロあまり加須良川を伝わって下るのが加須良道で、加須良道の尽きるまでよどみなく軽々と先導してくれたのは、亡き幼子の父親である。
加須良川のささやかな砂地には珠玉のような木苺が熟れている。私は、木苺のさわやかな酸味を味わった。


終わり
 


「孤村のともし火」の詩を村人たちはそれほど検討することはなかったと海野先生は書いておられる。そのことは彼らにその詩が理解できないからではない。その詩の語っていることが彼らにとって
当前のことだからであろう。私たちは町に住み、便利な生活をすればするほど、そのために失っ ていくものも大きい。そんなわれわれにとって自然と共生し貧しくとも心豊かに、家族睦まじく生活している人々のことが、うらやましく感ぜられることである。「鶏鳴を山中に聞くべし 星を眺めて生命を楽しむべし」とは外から見ての理想であり、実際に厳しい自然と戦いながら生きている人にとって自然の中での生活は大変なことである。海野先生は、彼らの生活 に人間本来の姿を見たのであろう。先生のそんな彼らを心から尊敬しいたわり少しでも力になりたいという気持ちが、その詩から痛いほど伝わってくる。

空海の言葉に「同じ事を見て、智者は楽と見、愚者は苦と見る」というのがある。厳しい自然の中での生活も、ただ苦とみるのではなく、楽と見るような宗教心というものが人間には必要ではないか。どうせ限りある生涯を、少しでも楽しく過ごすことができればそれにこしたことはない。「星を眺めて生命を楽しむべし」という言葉に、空海の 仏教精神を感じる。自然と一体となっての人間の生活がそこにある。その厳しさゆえに人間には宗教心というものが、どうしても必要であろう。そうでなければ人間は人間であることを保ち得ない。宗教を失った人間は単なる動物と何ら変わりないものになる。いや、それ以上に何をしでかすかわからない代物に成り果てるだろう。そう思うと現代日本の無宗教化といわれることは、なんと恐ろしい現実であることか。
服部健治
 

((Kenji Hattori's website))