竹青(前編)
Up 竹青(前編) 竹青(後編) 浦島太郎

 

太宰治 お伽草子(おとぎぞうし)より


むかし湖南の何とやら郡に、魚容という名の貧書生がいた。彼はどういいうわけか、福運には恵まれなかった。早く父母に死別し、親戚の家を転々して育って、自分の財産というのも、その間にきれいさっぱり無くなっていて、今は親戚一同から厄介者の扱いを受け、一人の酒くらいの伯父が、酔余の興にその家の色黒くやせこけた無学の女中をこの魚容に押しつけ、結婚せよ、良い縁だ、と傍若無人に勝手にきめて、魚容は大いに迷惑であったが、この伯父もまた育ての親の一人であって、いわば海山の大恩人に違いないのであるから、その酔漢の無礼な思いつきに対して怒ることもできず、涙をこらえ、うつろな気持ちで自分より二つ年上のその痩せてひからびた醜い女をめとったのである。女は酒くらいの伯父の妾(めかけ)であったという噂もあり、顔も醜いが、心もあまり結構でなかった。魚容の学問を頭から軽蔑して、魚容が「大学の道は至善に止(とどま)るにあり」などと口ずさむのを聞いて、ふんと鼻で笑い、「そんな至善なんてものに止るよりは、お金に止まって、おいしいご馳走に止まる工夫でもする事だ」とにくにくしげに言って、「あなた、すみませんが、これをみな洗濯してくださいな。少しは家事の手助けもするものです」と魚容の顔めがけて女の汚れ物を投げつける。魚容はそのよごれ物をかかえて裏の河原におもむき、「馬いなないて白日暮れ、剣鳴て秋来る」と小声で吟じ、さて、何の面白い事もなく、我が郷土にいながらも天涯の孤客のごとく、心は空しく河上を徘徊するという間の抜けた有様であった。

その二

「いつまでもこのようなみじめな暮らしを続けていては、わが立派な先祖に対しても申し訳がない。私もそろそろ三十、自立の秋だ。よし、ここは、一奮発して、大いなる名声を得なければならぬ」と決意して、まず女房を一つ殴って家を飛びだし、満々たる自信を以て郷試に応じたが、如何にせん永い間の貧乏暮しのために腹中に力無く、しどろもどろの答案しか書けなかったので、見事に落第。とぼとぼと、また故郷のあばら家に帰る途中の、悲しさは比類がない。おまけに腹がへって、どうにも足がすすまなくなって、湖畔の古寺の廊下に這いあがって、ごろりと仰向けに寝ころび、「あああ、この世とは、ただ人を無意味に苦しめるだけのところだ。私のごときは、幼少の頃より、まじめに一生懸命勉強しても、少しも福音の訪れる気配はなく、毎日毎日、忍び難い侮辱ばかり受けて、ここ一番奮起して郷試に応じても無残の失敗をするし、この世には鉄面皮の悪人ばかり栄えて、私のような気の弱い貧書生は永遠の敗者として嘲笑せられるだけのものか。女房をぶん殴って颯爽と家を出たところまでは良かったが、試験に落第して帰ったのでは、どんなに強く女房に罵倒されるかわからない。ああ、いっそ死にたい」と極度の疲労のため精神もうろうとなり、君子の道を学んだ者にも似合わず、しきりに世を呪い、我が身の不幸を嘆いて、薄目をあいて空飛ぶカラスの大群を見上げ、「カラスには、貧富がなくて、仕合せだなぁ。」と小声でいって、目を閉じた。

その三

落第書生の魚容は、このカラスの群が、喜々として大空を飛び回っている様をうらやましがり、鳥は仕合せだなあ、と哀れな細い声でつぶやいて眠るともなく、うとうとしたが、その時、「もし、もし」と黒衣の男にゆり起されたのである。魚容は、未だ夢心地で、「ああ、すみません。
叱らないでください。あやしい者ではありません。もう少
しここに寝かせて置いてください。どうかしからないでください。」と小さい時からただ人に叱られて育ってきたので、人を見ると自分を叱っているのではないかとおびえる卑屈な癖が身に付いていて、この時も、うわごとのように「すみません」を連発しながら寝返りをうって、また目をつぶる。「叱っているのではない。」とその黒衣の男は、不思議なしわがれたる声で言って、「呉王様のお言いつけだ。そんなに人の世がいやになって、カラスの生涯がうらやましかったら、ちょうどよい。いま黒衣隊が一卒欠けているから、それの補充にお前を採用してあげるという御言葉だ。早くこの黒衣を着なさい。」ふわりと薄い黒衣を、寝ている魚容にかぶせた

その四

たちまち、魚容は雄の鳥。目をパチパチさせて起き上がり、ちょんと廊下の欄干にとまって、くちばしで羽をかいつくろい、翼を広げて危なげに飛び立ち、いましも斜陽をいっぱい帆に浴びて湖畔を通る舟の上に、むらがりさわいで、舟子の投げあげる肉片を上手に受けて、すぐにもう、生まれてはじめてと思われる程の満腹感を覚え、岸の林に引き上げてきて、梢にとまり、水満々の湖面の夕日に映えて黄金色に輝いている様を見渡し、「秋風ひるがえす黄金浪花千片か」などとうそぶいていると、「あなた、」と艶なる女性の声がして、「お気に召しまして?」見ると、自分と同じ枝に雌のカラスが一羽とまっている。「おそれいります。」魚容は「何せどうも身は軽くして下界を離れたのですからなあ。叱らないでくださいよ。」とつい口癖になっているので、余計な一言を付け加えた。「存じております。」と雌の鳥は落ち着いて、「ずいぶん今まで、御苦労なさいましたそうですからね。お察し申しますわ。でも、もう、これからは大丈夫。あたしがついていますわ。」「失礼ですが、あなたは、どなたです。」「あら、あたしは、ただあなたのおそばに。どんな用でも言いつけて下さいまし。あたしは、何でも致します。そう思っていらしてください。おいや?」「いやじゃないが、」魚容は狼狽して、「私にはちゃんと女房が有ります。浮気は君子の慎むところです。あなたは、私を邪道に誘惑しようとしている。」と無理に分別顔を装って言った。「ひどいわ。あたしが軽はずみの好色の念からあなたに言い寄ったとでもお思いなの?これはみな呉王様の情け深いお取り計らいですわ。あなたをお慰め申すように、あたしは言いつかったのよ。あなたはもう、人間でないのですから、人間界の奥さんのことなんか忘れてしまってもいいのよ。あなたの奥さんはずいぶんお優しい人かも知れないけれど、あたしだってそれに負けずに、一生懸命にあなたのお世話をしますわ。鳥の操は、人間よりも、もっと正しいという事をお見せしてあげますから、おいやでしょうけれど、これから、あたしをおそばに置いてくださいな。あたしの名前は、竹青というの。」

その五

魚容は情に感じて、
「ありがとう。私も実は人間界でさんざんの目に遭ってきているので、どうも疑いぶかくなって、あなたのご親切を素直に受け取ることができなかったのです。ごめんなさい。「あら、そんなに改まった言い方をしては、おかしいわ。きょうから、あたしはあなたの召使じゃないの。それでは旦那様、ちょっと食後のお散歩は、いかがでしょう。」秋風じょうじょうと翼をなで、黒衣の新夫婦はああと鳴きかわして先になり後になり憂えず惑わず心のままに飛翔して、顔を見合わせて微笑み、やがて日が暮れるとねぐらに帰り、互いに羽をすり寄せて眠り、新婦の竹青は初々しく恥じらいながら影の形に添うごとくいつもそばにあって何かと優しく世話をやき、落第書生の魚容も、その半年の不幸をここで一ぺんに吹き飛ばしたような思いであった。その日の午後、往来の舟の帆柱にたわむれ、折りから兵士を満載した大船が通り、仲間の鳥どもはあれは危ないと逃げて、竹青もけたたましく鳴いて警告したのだけれども、魚容の神鳥はなにせ自由に飛翔できるのがうれしくてたまらず、得意げにその兵士の舟の上を旋回していたら、ひとりのいたずらっこの兵士が、ひょうと矢を射てあやまたず魚容の胸をつらぬき、石のように落下する間一髪、竹青、稲妻のごとく迅速に飛んできて魚容の翼をくわえ、さっとひきあげて、寺の廊下に、瀕死の魚容を寝かせ、涙を流しながら甲斐甲斐しく介抱した。魚容は傷の苦しさに、もはや息も絶える思いで、見えぬ目をわずかに開いて、「竹青」と小声で呼んだ、

その六

と思ったら、ふと目が覚めて、気がつくと自分は人間の、しかも昔のままの貧書生の姿で寺の廊下に寝ている。斜陽あかあかと目前の楓(かえで)の林を照らして、そこには数百の鳥が無心にああと鳴いて遊んでいる。「気がつきましたか。」と農夫の身なりをした爺(じじい)がそばに立って笑いながら尋ねる。
「あなたは、どなたです。」「わしはこの辺の百姓だが、きのうの夕方ここを通ったら、お前さんが死んだように深く眠っていて、眠りながら時々微笑んだりして、わしは、ずいぶん大声を挙げてお前さんを呼んでも一向に目を醒まさない。家へ帰ってからも気になるので、たびたびお前さんの様子を見に来て、目の醒めるのを待っていたのだ。見れば、顔色も良くないが、どこか病気か。」「いいえ、病気ではございません。」不思議におなかも今はちっとも空いていない。「すみませんでした。」と例のあやまり癖がでて、座りなおして農夫に丁寧におじぎをして、「お恥ずかしい話ですが、」と前置きをしてこの寺の廊下に行き倒れるにいたった事情を正直に打ち明け、重ねて、「すみませんでした。」とお詫びを言った。農夫はあわれに思った様子で、懐から財布を取りだしいくらかの金を与え、「人間万事さいおうが馬(人間の運命や禍福は定まりの無いものである)。元気を出して、再挙を図るさ。人生七十年、いろいろさまざまなことがある。翻覆して湖の波瀾にに似たり。」と洒落たことを言って立ち去る。魚容はまだ夢の続きを見ているような気持ちで、呆然と立って農夫を見送り、それから振りかえって「竹青」と叫んだ。一群の鳥が驚いて飛び立ち、ひとしきりやかましく騒いで魚容の頭の上を飛び回り、それからまっすぐに湖の方へ急いで行って、それっきり、何の変わったこともない。やっぱり、夢だったかなあ、と魚容は悲しげな顔をして首を振り、一つ大きいため息をついて、力無くふるさとに向けて出発する。

bullet後編につづく
 

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