その七
故郷の人達は、魚容が帰ってきても、格別うれしそうな顔もせず、冷酷の女房は、さっそく難儀を魚容に言いつけた。魚容は「貧して怨無きは難し」とつくづく嘆じ、「朝に竹青の声を聞かば夕に死するも可なり」と何につけても湖畔の一日の幸福な生活が燃えるほど激しくなつかしく思われるのである。しかし、わが魚容君もまた、君子の道に志している高まいの書生であるから、不人情の親戚をも努めて憎まず、無学の老妻にも逆らわず、ひたすら古書に親しんでいたが、それでもさすがに身辺のものから受ける蔑視には耐えかねることがあって、それから三年目の春、またもや女房をぶん殴って、今に見ろ、と青雲の志を抱いて家出して試験に応じ、やっぱり見事に落第した。よっぽど出来ない人だったと見える。帰途、また思い出の湖畔に立ち寄って、見るものみな懐かしく、悲しみもまた千倍して、おいおい声を放って泣き、頭上から降りてきた群鳥を眺めて、この中に竹青もいるのだろうなあ、と思っても、皆一様に真っ黒で、それこそ雌雄をさえ見分けることが出来ず、「竹青はどれですか。」と尋ねても振り返るカラスは一羽もない。それでもなお、この場所から立ち去ることができず、寺の廊下に腰を下ろして、ただやたらにため息をつき、「ええ、二度も続けて落第して、何の面目があっておめおめ故郷に帰られよう。生きてかいなき身の上だ、私もこの思い出なつかしい湖に身を投げて死ねば、或るいは竹青がどこかで見ていて涙を流してくれるかも知れない、私を本当に愛してくれたのは、あの竹青だけだ、あとはは皆、おそろしい我欲の鬼ばかりだった、人間万事さいおうの馬だと三年前にあのじいさんが言ってはげましてくれたけれども、あれは嘘だ、不仕合せに生まれついた者は、いつまで経っても不仕合せのどん底であがいているばかりだ、これすなわち天命を知るということか、あはは、死のう、竹青が泣いてくれたら、それでよい、他に何も望みはない」と、古聖賢の道を究めたはずの魚容も失意の憂愁に耐えかね、今夜はこの湖で死ぬ覚悟。やがて夜になり、今宵はいかにも静かな春の良夜、これがこの世の見おさめと思えば涙も袖にあまり、どこからともなく夜猿の悲しそうな鳴き声が聞こえてきて、愁思まさに絶頂に達した時、背後にはたはたと翼の音がして、「別来、つつが無きや。」振り向いてみると、月光をあびて、二十ばかりの麗人がにっこり笑っている。
その八
「どなたです、すみません。」ととにかく、あやまった。「いやよ、」と軽く魚容の肩を打ち、「竹青をお忘れになったの?」「竹青!」魚容は仰天して立上り、それから少し躊躇したが、ええ、ままよ、といきなり美女の細い肩をだきしめた。「離して。息が止まるわよ。」と竹青は笑いながら言って巧みに魚容の腕からのがれ、「あたしは、どこえも行かないわよ。もう、一生あなたのおそばに。」「たのむ!そうしておくれ。お前がいないので、私は今夜この湖に身を投げて死んでしまうつもりだった。お前は、いったいどこにいたのだ。」「あたしは遠い漢陽に。あなたと別れてからここを立ち退き、今は漢水の神鳥になっているのですさっき、この寺にいる昔のお友達があなたのお見えになっていることを知らせにいらして下さったので、あたしは、漢陽から急いで飛んできたのです。あなたの好きな竹青が、ちゃんとこうして来たのですから、もう、死ぬなんて恐ろしい事をお考えになっては、いやよ。ちょっと、あなたも痩せたわねえ。」「痩せるはずさ。二度も続けて落第しちゃったんだ。故郷に帰れば、またどんな目にあうかわからない。つくづくこの世がいやになった。」「あなたは、ご自分の故郷にだけ人生があると思い込んでいらっしゃるから、そんなに苦しくおなりになるのよ。いちど、あたしと一緒に漢陽の家へいらっしゃい。生きているのも、いいことだと、きっとお思いになりますから。」
その九
「漢陽は遠いなあ。」いずれが誘うともなく二人ならんで寺の廊下から出て月下の湖畔を歩きながら、「故郷には親戚の者たちがいる。大勢いる。私は何とかして、あの人達に、私の立派に出世した姿を一度見せてやりたい。あの人達は昔から私をまるであほうか何かみたいに思っているのだ。そうだ、漢陽へ行くよりは、これからお前と一緒に故郷に帰り、お前のそのきれいな顔を見せて、おどろかしてやりたい。ね、そうしようよ。私は、故郷の親戚の者たちの前で、一度、思いっきり、大いに威張ってみたいのだ。故郷の者たちに尊敬されると言うことは、人間の最高の幸福で、また終局の勝利だ。「どうしてそんなに故郷の人達の思惑ばかり気にするのでしょう。むやみに故郷の人達の尊敬を得たくて勤めている人を、郷原と言うんじゃなかったかしら。郷原は徳の賊なりと論語に書いてあったわね。」魚容ぎゃふんとまいって、やぶれかぶれになり、「よし、行こう。漢陽へ行こう。つれていってくれ。」「まいりますか。」竹青はいそいそして、「ああ、うれしい。漢陽の家では、あなたをお迎えしようとして、ちゃんと支度がしてあります。ちょっと、目をつぶって。」魚容は言われるままに目を軽くつぶると、はたはたと翼の音がして、それから何か自分の肩に薄い衣のようなものがかかったかと思うと、すっかり体が軽くなり、ああと、二羽、声をそろえて叫んで、ぱっと飛び立つ。
その十
「さあ、もう漢陽の家へ帰りました。」竹青は目で魚容に合図して、翼をすぼめ、一直線にその家めがけて降りて行き、魚容もおくれじと後を追い、二羽、その洲の青草原に降りたったとたんに、二人は貴公子と麗人、にっこり笑いあって寄り添い、迎えの者に囲まれながらその美しい楼舎にはいった。「漢陽の春の景色を満喫しよう。」と魚容は部屋の窓を押し開いた。朝の黄金の光がさっとさし込み、庭園の桃花はりょう乱たり、鴬鳴き、かなたには漢水の小波が朝日を受けて躍っている。そこからのあまりにも美しい景色を見て、「ああ、いい景色だ。くにの女房にも、一度みせたいなあ。」魚容は思わずそう言ってしまって愕然とした。私は未だあの醜い女房を愛しているのか、と我が胸に尋ねた。そうして、急になぜだか、泣きたくなった。「やっぱり奥さんのことは、お忘れでないと見える。」竹青はそばで、しみじみ言い、かすかなため息をもらした。「いや、そんな事はない。あれは私の学問を一向に敬重せず、よごれ物を洗濯させたり、難儀を言いつけたり、その上あれは、伯父の妾(めかけ)であったという評判だ。一つとしていいところが無いのだ。」「その、一つとしていいところがないのが、あなたにとって尊くなつかしく思われているじゃないの? あなたのご心底は、きっと、そうなのよ。奥さんを憎まず怨まず呪わず、一生涯、苦労をわかち合って共に暮らしていくのが、やっぱりあなたの本心の理想ではなかったのかしら。あなたはすぐにお帰りなさい。」竹青は、一変して厳粛な顔つきになり、きっぱりと言い放つ。魚容はおおいに狼狽して、「それは、ひどい。あんなに私を誘惑して、いまさら帰れとはひどい。郷原(むやみに故郷の人達の尊敬を得ようとする人)だの何だのと言って私を攻撃して故郷を捨てさせたのはお前じゃないか。まるでお前は私をなぶりものにしているようなものだ。」と抗弁した。
その十一
「あたしは神女です。」と竹青は、きらきら光る漢水の流れをまっすぐに見つめたまま、更にきびしい口調で言った。「あなたは、郷試には落第しましたが、神の試験には及第しました。あなだが本当に鳥の身の上を羨望しているのかどうか、よく調べてみるように、あたしは神様から内々に言いつけられていたのです。禽(きん)獣に化して真の幸福を感ずるような人間は、神に最も嫌われます。一度はこらしめのため、あなたを弓矢で傷つけて、人間界に帰してあげましたが、あなたはふただび鳥の世界に帰ることを乞いました。神は、こんどはあなたに遠い旅をさせて、さまざまの楽しみを与え、あなたがその快楽に酔いしれて全く人間の世界を忘却するかどうか、試みたのです。忘却したら、あなたに与えられる刑罰は、恐ろしすぎて口にだして言う事さえできないほどのものです。お帰りなさい。あなたは、神の試験には見事に及第なさいました。人間は一生、人間の愛憎の中で苦しまなければならぬものです。のがれ出ることは出来ません。忍んで、努力を積むだけです。学問も結構ですが、やたらに脱俗をてらうのは卑怯です。もっと、むきになって、この俗世間を愛惜し、愁殺し、一生そこに没頭してみてください。神は、そのような人間の姿を一ばん愛しています。ただいま召使のものたちに、舟の支度をさせております。あれに乗って、故郷へ真っ直ぐにお帰りなさい。さようなら。」と言い終えると、竹青の姿はもとより、桜舎も庭園もこつ然と消えて、魚容は川の中の中州に唖然とひとり立っている。
その十二
魚容は、すこぶるしょげて、故郷に帰り、おっかなびっくり、我が家の裏口から薄暗い内部を覗くと、「あら、おかえり。」と艶然と笑って出迎えたのは、ああ、驚くべし、竹青ではないか。「やあ!
竹青!」「何をおっしゃるの。あなたは、まあ、どこへいらしていたの?
あたしはあなたの留守に大病して、ひどい熱を出して、誰もあたしを看病してくれる人がいなくて、しみじみあなたが恋しくなって、あたしが今まであなたを馬鹿にしていたのは本当に間違った事だったと後悔して、あなたのお帰りを、どんなにお待ちしていたかわかりません。熱がなかなか下がらなくて、そのうちに全身が紫色に腫れてきて、これもあなたのようないいお方を粗末にした罰で、当然の報だとあきらめて、もう死ぬのを静かに待っていたら、腫れた皮膚が破れて青い水がどっさり出て、すっと体が軽くなり、今朝鏡を覗いてみたら、あたしの顔は、すっかり変わって、こんなきれいな顔になっているのでうれしくて、病気も何も忘れてしまい、寝床から飛び出て、さっそく家の中のお掃除などを始めていたら、あなたのお帰りでしょう?あたしは、うれしいわ。ゆるしてね。あたしは顔ばかりでなく、からだ全体変わったのよ。それから、心も変わったのよ。あたしは悪かったわ。でも、過去のあたしの悪事は、あの青い水と一緒に流れ出てしまったのですから、あなたも昔のことは忘れて、あたしをゆるして、あなたのおそばに一生置いてくださいな。」一年後に、玉のような美しい男子が生まれた。魚容はその子に「漢産」という名をつけた。その名の由来は最愛の女房にも明かさなかった。神鳥の思い出と共に、それは魚容の胸中の尊い秘密として一生、誰にも語らず、また、例のご自慢の「君子の道」も以後はいっさい口にせず、ただ黙々と相変わらずの貧しいその日暮らしを続け、親戚の者たちにはやはり一向に敬せられなかったが、格別それを気にするふうも無く、極めて平凡な一田夫として俗塵(ぞくじん)に埋もれた。
おわり
解説 奥野健男
『竹青』は章は二十年一月『大東亜文学』に中国語訳で発表された後、同年『文芸』四月号に掲載された。
何度も自殺をはかった太宰がいまや周囲からばかにされ、生活に絶望しながらも、なんとかしてこの世に生きてゆこうという決意をこの作品を通して自分に言い聞かせているようである。