大浜港




大浜湊

 大浜は幕府領時代から幕府の年貢米を積み出す三河「五箇所湊」の
 ひとつでした。しかし幕府の正式に認める「湊」でありませんでした。
 1774年(延享元年)大濱村は大浜を「湊」と認定する様 幕府役所へ
 願書を提出しましたが認められませんでした。1768年(明和5年)
 大浜村が水野領になると翌年水野氏を通じ、再度大浜を「湊」として
 認定する様願書を提出しました。この願書は幕府勘定所に上げられ
 当時三河を支配していた駿河代官に諮問され1773年(安永2年)
 幕府公認湊と認められる事となりました。

 大浜湊は18世紀半ばに江戸廻船は30艘程度にまで達しており幕府
 米を運び帰り荷として干鰯を輸送、生綿栽培を発展させました。
 18世紀初め頃より酒造は制限を受けなくなり著しく醸造高が増加し
 これが江戸廻船の主な積荷となっていきました。生綿生産の広がり
 は木綿生産の増大をもたらし農家の副業として生産された白木綿や
 繰り綿は主に江戸に送られ大浜湊は大いに発展して行きました。

                                    参考「碧南市大浜地区の歴史とくらし」
 



大浜漁業協同組合事務所


市場


漁船を臨む


                          作業車
 

赤煉瓦広場(かつてここに赤煉瓦造りの製氷倉庫がありました)



港より本伝寺を臨む