貞女加藤菊女ゆかりの大浜弁財天です。 弁財天は加藤菊女の夫、加藤友右衛門が流刑の地より罪を許され 帰郷の途中江ノ島の弁財天を勧請したものです。加藤家の屋敷神 でしたが後に加藤家は廃れ、山稲荷社と合祀し現在に至ります。 孫市事件 1718年江戸日本橋の白木屋で高価なけさを盗み貞照院に隠れ住んだ若い僧に捕吏の 役人が白昼寺に突入した。寺側は盗賊と勘違いし鐘を付き緊急事態を知らせ集まった 農民たちが役人に暴行を加えてしまった。西尾の賭場の孫市は仲裁に入るふりをして 相手側より金を取り僧を逃がしてしまった。孫市は死罪、責任を取らされた看守宗心と 伏見屋代官は流罪となった。ただ代官の加藤四郎左衛門は高齢だった事もあり息子の 友右衛門が身代わりとなった。 友右衛門は貞照院看守宗心と共に伊豆大島の新島村に渡った。友右衛門と共に厳しい 境涯にあった宗心は、憂悶の幾年かを経た享保11年(1726年)1月、再び故郷の土を 踏むことなく、この地で相果ててしまった。その後も、友右衛門は今日の生、明日の死を 覚悟して、辛苦みちた月日に耐えた 一方菊女は、伊豆大島にある夫を想い安らかにできず、嘆き悲しんだ。菊女は大変 信心深く、それからというものは大浜村熊野権現に日参祈願を決意し、毎夜裸足参りの お百度を踏み風雨霜雪も構わずに拝伏して夫の無事帰国を祈願した。家にあっても 留守を守り、両親に仕えた。また、心魂を捧げて写経に打ち込み、毎日の様に手紙と 写経の一部を竹筒に納めて、これを伊豆の方に向かい、海中に投じて夫の元へ届く様 にと祈った。 孤独な身の友右衛門はある日、釣り舟を浮かべて釣り糸を垂れていた。そこに小さな 竹筒が流れて来て舟に近づくので、何度も押しやった。いくら避けても寄せてくるので、 奇異を感じ拾い上げてみた。そして中を開けてみると、妻菊女の手紙と法華経の写経 の一部が入っていたのだ。友右衛門は、驚いて早速このことを島の役人に申し出た。 報告を受けた上司も感激して、更に幕府に上申したところ、貞女の一念に幕府も深く 感銘し、節婦の殊勝な行跡に免じて、友右衛門を赦免した。8年間の流囚の苦難の 生活を許されて、なつかしの故郷大浜に着いたのは、享保11年(1726年)宗心の亡く なったその年の12月であった 参考 碧南を駆け抜けた熱き風たち−碧南人物小伝−より |