壱 (一)
 
 山の中の道のかたわらに、椿の木がありました。
牛曳きの利助さんは、それに牛をつなぎました。
人力曳きの海蔵さんも、椿の根本へ人力車をおきました。
人力車は牛ではないから、つないでおかなくってもよかったのです。
そこで、利助さんと海蔵さんは、水をのみに山の中にはいってゆきました。
道から一町ばかり山にわけいったところに、
清くてつめたい清水がいつも湧いていたのであります。
 二人はかわりばんこに、泉のふちの、シダやゼンマイの上に両手をつき、腹ばいになり、
つめたい水の匂いをかぎながら、鹿のように水をのみました。
はらの中が、ごぼごぼいうほどのみました。山の中では、もう春蝉がないていました。
「ああ、あれがもう鳴き出したな。あれをきくと暑くなるて。」
と、海蔵さんが、まんじゅう笠をかむりながらいいました。
「これからまたこの清水を、ゆききのたンびに飲ませてもらうことだて。」と、利助さんは、
水をのんで汗が出たので、手拭いでふきふきいいました。
「もうちと、道が近いとええがのオ。」と海蔵さんがいいました。
「まったくだて。」と、利助さんが答えました。
ここで水をのんだあとでは、誰でもそんなことを挨拶のようにいいあうのがつねでした。
 二人が椿のところへもどって来ると、そこに自転車をとめて、一人の男の人が立っていました。
その頃は自転車が日本にはいって来たばかりのじぶんで、
自転車を持っている人は、田舎では旦那衆にきまっていました。

「誰だろう。」と、利助さんが、おどおどしていいました。
「区長さんかも知れん。」と、海蔵さんがいいました。
そばに来てみると、それはこの附近の土地を持っている、町の年とった地主であることがわかりました。
そして、も一つわかったことは、地主がかんかんに怒っていることでした。
「やいやい、この牛は誰の牛だ。」
と、地主は二人をみると、どなりつけました。その牛は利助さんの牛でありました。
「わしの牛だがのイ。」
「てめえの牛~? これを見よ。椿の葉をみんな喰ってすっかり坊主にしてしまった。」
 二人が、牛をつないだ椿の木を見ると、それは自転車をもった地主がいったとおりでありました。
若い椿の、柔らかい葉はすっかりむしりとられて、みすぼらしい杖のようなものが立っていただけでした。
 利助さんは、とんだことになったと思って、顔をまっかにしながら、あわてて木から綱をときました。
そして申しわけに、牛の首ったまを、手綱をぴしりと打ちました。
 しかし、そんなことぐらいでは、地主はゆるしてくれませんでした。
地主は大人の利助さんを、まるで子供を叱るように、さんざん叱りとばしました。
そして自転車のサドルをパンパン叩きながら、こういいました。
「さあ、何でもかんでも、もとのように葉をつけてしめせ。」
これは無理なことでありました。そこで人力曳きの海蔵さんも、まんじゅう笠をぬいで、
利助さんのためにあやまってやりました。
「まあまあ、こんどだけはかに(かんにん)してやっとくんやす。
 利助さも、まさか牛が椿を喰ってしまうとは知らずにつないだことだで。」

 そこでようやく地主は、はらのむしがおさまりました。けれど、あまりどなりちらしたので、
体がふるえるとみえて、二、三べん自転車に乗りそこね、それからうまくのって、行ってしまいました。
 利助さんと海蔵さんは、村の方へ歩きだしました。けれどもう話はしませんでした。
大人が大人に叱りとばされるというのは、情けないことだろうと、人力曳きの海蔵さんは、
利助さんの気持ちをくんでやりました。
「もうちっと、あの清水が道に近いとええのだがのオ。」と、とうとう海蔵さんが言いました。
「まったくだて。」と、利助さんが答えました。
弐 (二)
 
 海蔵さんが人力曳きのたまり場へ来ると、井戸掘りの新五郎さんがいました。
人力曳きのたまり場といっても、村の街道にそった駄菓子屋のことでありました。
そこで井戸掘りの新五郎さんは、油菓子をかじりながら、つまらぬ話を大きな声でしていました。
井戸の底から、外にいる人にむかって話をするために、井戸新さんの声が大きくなってしまったのであります。
「井戸ってもなア、いったいいくらくらいで掘れるもんかイ、井戸新さ。」
と、海蔵さんは、じぶんも駄菓子箱から油菓子を一本つまみだしながらききました。
 井戸新さんは、人足がいくらいくら、井戸囲いの土管がいくらいくら、土管のつぎめを埋めるセメントがいくらと、
こまかく説明して、「先ず、ふつうの井戸なら、三十円もあればできるな。」と、いいました。
「ほオ、三十円な。」と、海蔵さんは、眼をまるくしました。
 それからしばらく、油菓子をぼりぼりかじっていましたが、
「 ”しんたのむね” を下りたところに掘ったら、水が出るだろうかなア。」
と、ききました。それは、利助さんが牛をつないだ椿の木のあたりのことでありました。
「うん、あそこなら、出ようて、前の山で清水が湧くくらいだから、あの下なら水は出ようが、
 あんなところへ井戸を掘って何にするや。」と、井戸新さんがききました。
「うん、ちっとわけがあるだて。」と、答えたきり、海蔵さんはそのわけをいいませんでした。
 海蔵さんは、からの人力車をひきながら家に帰ってゆくとき、
「三十円な。・・・・・三十円か。」と、何度もつぶやいたのでありました。
 海蔵さんは藪をうしろにした小さい藁屋に、年とったお母さんと二人きりで住んでいました。
二人は百姓仕事をし、暇なときには海蔵さんが、人力車を曳きに出ていたのであります。
 夕飯のときに二人は、その日にあったことを話しあうのが、たのしみでありました。
年とったお母さんは隣の鶏
(にわとり)が今日はじめた卵をうんだが、それはおかしいくらい小さかったこと、
背戸の柊(ひいらぎ)の木に蜂が巣をかけるつもりか、昨日も今日も様子を見に来たが、
あんなところに蜂の巣をかけられては、味噌部屋へ味噌をとりにゆくときに、
あぶなくてしようがないということを話しました。
 海蔵さんは、水をのみにいっている間に、利助さんの牛が椿の葉を喰ってしまったことを話して、
「あそこの道ばたに井戸があったら、いいだろうにのオ。」といいました。
「そりゃ、道ばたにあったら、みんながたすかる。」
と、いって、お母さんは、あの道の暑い日盛りに通る人々をかぞえあげました。
大野の町から車をひいて来る油売り、半田の町から大野の町へ通る飛脚屋、
村から半田の町へでかけてゆく羅宇屋の富さん、そのほか沢山の荷馬車曳き、牛車曳き、人力曳き、
遍路さん、乞食、学校生徒などをかぞえあげました。
これらの人の ”のど” がちょうど ”しんたのむね” あたりで乾かぬわけにはいきません。
「だで、道のわきに井戸があったら、どんなにかみんながたすかる。」と、お母さんは話をむすびました。
三十円くらいで、その井戸が掘れるということを、海蔵さんが話しました。
「うちのような貧乏人にゃ、三十円といや大した金で眼がまうが、
 利助さんとこのような成金にとっちゃ、三十円ばかり何でもあるまい。」と、お母さんはいいました。
海蔵さんは、せんだって利助さんが、山林でたいそうなお金を儲けたそうなときいたことを
おもいだしました。ひと風呂あびてから、海蔵さんは牛車曳きの利助さんの家へ出かけました。
 
羅宇とは

羅宇屋:ラウのすげ替えを職業とする人。
 羅宇
(ラウ)とは煙管(キセル)の火皿と吸い口の間をつなぐ竹管。
 インドシナ半島のラオス産の黒斑竹を使っていたので、
 地名のラオス→ラオと呼ばれたそうです。
 
最近のタバコは、紙巻きタバコから電子タバコ になって来ていますが、江戸時代は煙管(きせる)でタバコを吸っていました。煙管とは、刻みタバコを入れる雁首の火皿と吸い口の金属部を羅宇と呼ばれる管で繋いだ喫煙具です。両端は金属製なので耐久性があるのですが、真ん中は竹で出来ていましたので、ヤニが詰まったり、ひびが割れたりしました。この交換や掃除をしてくれていたのが羅宇屋です。手間賃は非常に安く、8文から10文程度だったと言われています。珍しい物では、金属だけで作られた大変ゴツい喧嘩煙管という物もありましたが・・・。
当時の煙管や喧嘩煙管は、JTさんが運営する「たばこと塩の博物館」に行けば、実物が見られます。
お江戸のリサイクル

 

 うしろ山で、ほォほォと梟(ふくろう)が鳴いていて、崖の上の仁左衛エ門さんの家では、
念仏講(ねんぶつこう)があるのか、障子にあかりがさし、木魚の音が、
崖の下のみちまでこぼれていました。もう夜でありました。
行ってみると、働き者の利助さんは、まだ牛小屋の中のくらやみで、ごそごそと何かしていました。「えらい精が出るのォ。」と、海蔵さんがいいました。
「なに、あれから二へん半田まで通ってのォ、ちょっとおくれただてや。」
といいながら、牛の腹の下をくぐって利助さんが出てきました。
 二人が縁ばなに腰をかけると、海蔵さんが
「なに、きょうの ”しんたむね” のことだがのォ。」と、話はじめました。
「あの道ばたに井戸を一つ掘ったら、みんながたすかると思うがのォ。」と、
海蔵さんがもちかけました。「そりゃ、たすかるのォ。」と、利助さんがうけました。
「牛が椿の葉をくっちまうまで知らんどったのは、清水が道から遠すぎるからだのォ。」
「そりゃ、そうだのォ。」
「三十円ありゃ、あそこに井戸がひとつ掘れるだがのォ。」
「ほォ、三十円のォ。」
「ああ、三十円ありゃええだげな。」
「三十円ありゃのォ。」
こんなふうにいっていても、いっこう利助さんが、
こちらの心をくみとってくれないので、海蔵さんは、はっきりいってみました。
「それだけ、利助さ、ふんぱつしてくれないかェ。
 きけば、お前、だいぶ山林でもうかったそうだが。」
利助さんは、いままで調子よくしゃべっていましたが、きゅうに黙ってしまいました。
そして、じぶんのほっぺたをつねっていました。
「どうだエ、利助さ。」と、海蔵さんは、しばらくして答えをうながしました。
 それでも利助さんは、岩のように黙っていました。
どうやら、こんな話は利助さんには面白くなさそうでした。
「三十円で、できるげなのオ。」と、また海蔵さんがいいました。
「その三十円をどうしておれが出すのかエ。おれだけが、その水をのむなら話がわかるが、
ほかのもんも、みんなのむ井戸に、どうしておれが金をだすのか、
そこがおれには、よくのみこめんがのオ。」と、やがて利助さんはいいました。
 海蔵さんは、人々のためだということを、いろいろと説きましたが、どうしても利助さんには
「のみこめ」ませんでした。しまいには利助さんは、もうこんな話はいやだというように、
「おかか、めしのしたくしろよ。おれ、腹がへっとるで。」と家の中へむかってどなりました。

海蔵さんは腰をあげました。利助さんが、夜おそくまでせっせと働くのは、
じぶんだけのためだということがよくわかったのです。
ひとりで夜みちを歩きながら、海蔵さんはおもいました。
___ こりゃ、ひとにたよっていちゃだめだ、じぶんの力でしなけりゃ、と。
 
参 (三)
 旅の人や、町へゆく人は、” しんたのむね ” の下の椿の木に、賽銭箱(さいせんばこ)
ようなものが吊るされてあるのを見ました。それには札がついていて、こう書いてありました。
「ここに井戸を掘って旅の人にのんでもらおうと思います。
 志
(こころざし)のある方は一銭でも五厘でも喜捨して下さい。」
これは海蔵さんのしわざでありました。それがしょうこに、それから五、六日のち、
海蔵さんは、椿の木に向かいあった崖の上にはらばいになって、
エニシダの下から首ったまだけ出し、人々の喜捨のしようをみていました。
やがて半田の町の方からお婆さんがひとり、乳母車を押してきました。
花を売って帰るところでしょう。お婆さんは箱に目をとめて、しばらく札をながめていました。
しかし、お婆さんは字を読んだのではなかったのです。なぜなら、こんなひとりごとを
いいました。「地蔵さんも何もないのに、なんでこんなとこに賽銭箱があるじゃろ。」
そしてお婆さんは行ってしまいました。
海蔵さんは、右手にのせていたあごを、左手にのせかえました。
 こんどは村の方から、” しりはしょり ” した、がにまたのお爺さんがやってきました。
「庄平さんのじいさんだ。あの爺さんは昔の人間でも、字が読めるはずだ。」
と、海蔵さんは、つぶやきました。お爺さんは箱に眼をとめました。そして「なになに。」
といいながら、腰をのばして札を読みはじめました。読んでしまうと、
「なアるほど、ふふウん、なアるほど。」と、ひどく感心しました。
そして、懐
(ふところ)の中をさぐりだしたので、これは喜捨してくれるなと思っていると、
とり出したのは古くさい莨入れ(たばこいれ)でした。
お爺さんは椿の根本でいっぷくすって行ってしまいました。
 海蔵さんは、起き上がって、椿の木の方へすべりおりました。
箱を手にとって、ふってみました。何の手ごたえもないのでした。
がっかりして、海蔵さんは、ふうッと、いきをもらしました。
「けっきょく、ひとは頼りにならんとわかった。いよいよこうなったら、おれひとりの力で
 やりとげるのだ。」といいながら海蔵さんは、 ” しんたのむね ” をのぼって行きました。
 
肆 (四)
 
 次の日、大野の町へ客を送ってきた海蔵さんが、村の茶店にはいってきました。
そこは、村の人力曳きたちが、ひと仕事して来ると、次のお客を待ちながら、
憩んで
(やすんで)いる場所になっていたのでした。
その日も、海蔵さんよりさきに三人の人力曳きが、茶店の中に 憩んで(やすんで)いました。
 店に、はいって来た海蔵さんは、いつものように、駄菓子箱のならんだ台のうしろに
仰向けに寝ころがって、うっかり油菓子をひとつ摘まんでしまいました。人力曳きたちは、
お客を待っているあいだ、することがないので、つい、駄菓子箱のふたをあけて、油菓子や、
げんこつや、ぺこしゃんという飴(あめ)や、やきするめや、餡つぼなどを
つまむのが癖になっていました。海蔵さんもまたそうでした。
 しかし、海蔵さんは、今、つまんだ油菓子をまたもとの箱に入れてしいました。
見ていた仲間の源さんが、「どうしただや、海蔵さ。あの油菓子は
(ねずみ)の小便(しょうべん=おしっこ)でもかかっておるだかや」といいました。
海蔵さんは、顔をあかくしながら、「ううん、そういうわけじゃねえけれど、
きょうはあまり喰(た)べたくないだがや」と、答えました。
「へへエ。いっこう顔色も悪くないようだが、それでどこか悪いだかや。」と、源さんが
いいました。しばらくして源さんは、ガラス壺(つぼ)から金平糖(こんぺいとう)を一掴み
とりだすと、そのうちの一つを、ぽオいと上に投げ上げ、口でぱくりと受けとめました。
そして、「どうだや、海蔵さ。これをやらんかや。」といいました。
海蔵さんは、昨日まではよく源さんと、それをやったものでした。
二人で競争をやって、受けそこなった数のすくないものが、相手に別の菓子を買わせたりした
ものでした。そして海蔵さんは、この芸当では、ほかのどの人力曳きにも負けませんでした。
金平糖(こんぺいとう)

しかし、きょうは海蔵さんはいいました。
「朝から奥歯がやめやがってな、甘いものはたべられんのだてや。」
「そうかや、そいじゃ、由さ、やろう。」といって、源さんは由さんと、それをはじめました。
二人は色とりどりの金平糖を、天井に向かって投げあげてはそれを口でとめようとしましたが、
うまく口にはいるときもあれば、鼻にあたったり、たばこぼんの灰の中に
はいったりすることもありました。
 海蔵さんは、じぶんがするなら、ひとつもそらしはしないのだがなあ、
と思いながら見ていました。あまり源さんと由さんが落としてばかりいると
「よし、おれがひとつやって見せてやろかい。」といって出たくなるのでしたが、
それをがまんしていました。これはたいへんつらいことでありました。
 はやく、お客がくればいいのになあ、と海蔵さんは眼をほそめて明るい道の方を見ていました。
しかしお客よりさきに、茶店のおかみさんが、焼きたてのほかほかの大餡巻をつくって
あらわれました。人力曳きたちは、大よろこび、一本ずつとりました。海蔵さんもがまんが
できなくなって、手が少しうごきだしましたが、やっとのことでおさえました。
「海蔵さ、どうしたじゃ。一銭もつかわんで、ごっそりためておいて、
大きな倉でもたてるつもりかや。」と、源さんがいいました。
海蔵さんは苦しそうに笑って、外へ出てゆきました。
そして、溝のふちで、かやつり草を折って、蛙をつっていました。

 海蔵さんの胸のなかには、拳骨(げんこつ)のように固い決心があったのです。
今までお菓子につかったお金を、これからは使わずにためておいて、 ”しんたのむね” の
下に、人々のための井戸を掘ろうというのでありました。
 海蔵さんは、腹も歯もいたくありませんでした。のどから手がでるほど、
お菓子は食べたかったのでした。しかし、井戸をつくるために、
今までの習慣をあらためたのでありました。
 
 
かやつり草(蚊帳吊草)、マスクサ(枡草)
      昔、この植物の茎を引き裂いて、蚊帳(かや)を吊ったような
      四角形を作る子どもの遊びがあったことからついた名前。
カヤツリグサ 蚊帳(かや) 昔の子どもの遊び
 
のどから手がでる ほしくてたまらない ” たとえ ” て言うこと。
 
伍 (五)
 
じぶん 【時分】
1, おおよその時期、時刻、ころ 「そろそろ着くじぶんだ」「若いじぶん」
2,
適当な時期、ちょうどよいころあい、好機 「じぶんをみはからって着手する」
 
 それから二年たちました。
牛が葉をたべてしまった椿にも、花が三つ四つ咲いたじぶんの或る日、
海蔵さんは、半田の町に住んでいる地主の家へやっていきました。
海蔵さんは、もう二
月ほどまえから、たびたびこの家へきたのでした。
井戸を掘るお金はだいたいできたのですが、いざとなって地主が、
そこに井戸を掘ることをしょうちしてくれないので、何度も頼みに来たのでした。
 その地主というのは、牛を椿につないだ利助さんを、さんざん叱ったあの老人だったのです。
海蔵さんが門をはいったとき、家の中から、ひぇっという ひどいしゃっくりの音が聞こえて来ました。
たずねて見ると、一昨日から地主の老人は、しゃっくりがとまらないので、すっかり体がよわって、
床についているということでした。それで、海蔵さんはお見舞いに枕もとまできました。
老人は、ふとんを波うたせて、しゃっくりをしていました。そして、海蔵さんの顔を見ると、
「いや、何度お前が頼みにきても、わしは井戸を掘らせん。しゃっくりがもうあと一日
つづくと、わしが死ぬそうだが、死んでもそいつは許さぬ。」と、がんこにいいました。
 海蔵さんは、こんな死にかかった人と争ってもしかたがないと思って、しゃっくりにきくおまじないは、
茶わんに箸を一本のせておいて、ひといきに水をのんでしまうことだ、と教えてやりました。
 門を出ようとすると、老人の息子さんが、海蔵さんのあとを追ってきて、
「うちの親父は、がんこでしようがないのですよ。そのうち、私の代になりますから、
そしたら私があなたの井戸を掘ることを承知してあげましょう。」といいました。
 海蔵さんは喜びました。あの様子では、もうあの老人は、あと二、三日で死ぬに違いない。
そうすれば、あの息子があとをついで、井戸を掘らせてくれる、これはうまいと思いました。
 その夜、夕飯のとき、海蔵さんは年をとったお母さんに、こう話しました。
「あのがんこ者の親父が死ねば、息子が井戸を掘らせてくれるそうだがのオ。
だが、ありゃ、もう二、三日で死ぬからええて。」すると、お母さんはいいました。
「お前は、じぶんの仕事のことばかり考えていて、悪い心になっただな。
人の死ぬのを待ちのぞんでいるのは悪いことだぞや」 海蔵さんは、
とむねをつかれたような気がしました。お母さんのいうとおりだったのです。

吐胸を突く(とむねをつく)
急の事態におどろいて ” どきっ ” とする。びっくりする。

 次の朝早く、海蔵さんは、また地主の家へでかけていきました。門をはいると、昨日より力のない、
ひきつるようなしゃっくりの声が聞こえて来ました。だいぶ地主の体が弱ったことがわかりました。
「あんたは、またきましたね。親父はまだ生きていますよ。」と、出て来た息子さんがいいました。
「いえ、わしは、親父さんが生きておいでのうちに、ぜひおあいしたいので。」と海蔵さんはいいました。
老人はやつれて寝ていました。海蔵さんは枕もとに両手をついて、
「わしは、あやまりに参りました。昨日、わしはここから帰るとき、息子さんから、あなたが死ねば
息子さんが井戸を許してくれるときいて、悪い心になりました。もうじき、あなたが死ぬからいい
などと、恐ろしいことを平気で思っていました。つまり、わしはじぶんの井戸のことばかり考えて、
あなたの死ぬことを待ちねがうというような、鬼にもひとしい心になりました。
そこで、わしは、あやまりに参りました。井戸のことは、もうお願いしません。またどこか、
ほかの場所をさがすとします。ですから、あなたはどうぞ、死なないで下さい。」と、いいました。
 老人は黙ってきいていました。それから長いあいだ黙って海蔵さんの顔を見上げていました。
「お前さんは、感心なおひとじゃ。」と、老人はやっと口を切っていいました。
「お前さんは、心のええおひとじゃ、わしは長い生涯、じぶんの慾(よく)ばかりで、ひとのことなど
ちっとも思わず生きて来たが、いまはじめてお前さんのりっぱな心にうごかされた。
お前さんのような人は、いまどき珍しい。それじゃ、あそこへ井戸を掘らしてあげよう。
どんな井戸でも掘りなさい。もし掘って水がでなかったら、どこでもおまえさんの
好きなところに掘らしてあげよう。あのへんは、みな、わしの土地だから。
うん、そうして、井戸を掘る費用がたりなかったら、いくらでもわしが出してあげよう。
わしは明日にも死ぬかも知れんから、このことを遺言しておいてあげよう。」
 海蔵さんは、思いがけない言葉をきいて、返事のしようもありませんでした。だが、死ぬまえに、
この一人の慾(よく)ばりの老人が、よい心になったのは、海蔵さんにもうれしいことでありました。
 
陸 (六)
 
 ” しんたのむね ” から打ちあげられて、少しくもった空で、花火がはじけたのは、
春も末に近いころの昼でした。村の方から行列が、” しんたのむね ” を下りて来ました。
行列の先頭には黒い服、黒と黄の帽子をかむった兵士が一人いました。それが海蔵さんでありました。
 ” しんたのむね ” を下りたところに、かたがわには椿の木がありました。
今、花は散って、浅緑の柔らかい若葉になっていました。
もういっぽうには、崖をすこしえぐりとって、そこから新しい井戸ができていました。
そこまで来ると、行列がとまってしまいました。先頭の海蔵さんがとまったからです。
学校かえりの小さい子どもが二人、井戸から水を汲んで、のどをならしながら、
美しい水をのんでいました。海蔵さんは、それをにこにこしながら見ていました。
「おれも、いっぱいのんで行こうか。」
子どもたちがすむと、海蔵さんはそういって、井戸のところへいきました。
中をのぞくと、新しい井戸に、新しい清水がゆたかに湧いていました。
ちょうど、そのように、海蔵さんの心の中にも、よろこびが湧いていました。
海蔵さんは、汲んでうまそうにのみました。
「わしはもう、思いのこすことはないがや。こんな小さな仕事だが、人のためになることを
残すことができたからのオ。」と、海蔵さんは誰でも、とっつかまえていいたい気持ちでした。
しかし、そんなことはいわないで、ただにこにこしながら、町の方へ坂をのぼって行きました。
 日本とロシアが、海の向こうで戦いをはじめていました。
海蔵さんは海をわたって、その戦いの中にはいって行くのでありました。
 
漆 (七)
 
 ついに海蔵さんは、帰って来ませんでした。
勇ましく日露戦争の花と散ったのです。
しかし、海蔵さんの、のこした仕事は、いまでも生きています。
椿の木かげに清水は、いまも、こんこんと湧き、道につかれた人々は、
のどをうるおして元気をとりもどし、また、道をすすんで行くのであります。
 
おしまい
 日露戦争とは
 日露戦争は、1904年( 明治 37年)2月から1905年(明治38年)9月にかけて大日本帝国 ( 日本 )と 南下政策 を行う ロシア帝国 との間で行われ朝鮮・満州の支配権をめぐり日本とロシアの間でおこなわれた帝国主義的戦争です。
 1904年に日本の旅順攻撃で開始し、翌年に日本は奉天を占領、日本海海戦の勝利によって軍事上の勝敗はほぼ決定しました。

 1905年9月にアメリカのポーツマスで講和条約が結ばれ、日本の勝利で幕を閉じます。その結果、日本は韓国の保護権が承認され、ロシアからは南樺太、南満州鉄道の利権、旅順・大連の租借権を得ることになりました。

 日露戦争が起こった原因

 1895年4月、日本と清国の間で、日清戦争の講和条約である下関条約が結ばれました。その内容のひとつに、遼東半島を日本に割譲するというものがありました。
 しかしこの遼東半島の割譲は南下政策をとるロシアを刺激し、ロシアがフランスとドイツをさそって、同半島の返還を日本に要求してきます。この三国干渉に対し、国力に劣る日本政府は返還に応じるほかありませんでした。

 その後日本は、朝鮮半島問題についての譲歩を期待して、ロシアへの協調に腐心します。しかし、清で起きた「義和団事件」の混乱を鎮圧するためにロシアが軍隊を派遣し、そのまま満州を占領する事態になりました。
 ロシアが満州を支配することは日本の朝鮮半島における権益を脅かします。日本は、同じく自国のアジア政策に不利となるイギリスと同盟を締結し、開戦準備を進めました。

 日露戦争の結末

 開戦からおよそ1年が経った1905年1月、ロシアの重要拠点であった旅順要塞が陥落します。これによって、日本海側の制海権は日本のものになりました。冬季には膠着していた戦線が3月になると再び動きだし、奉天で両軍あわせて約60万が動員された大規模な会戦がはじまりました。18日間の激闘のすえロシア軍が撤退し、日本の勝利で終わります。
 5月、日本海海戦で、ヨーロッパから遠征してきたロシア海軍のバルチック艦隊を日本の連合艦隊が全滅させました。日本は連勝していましたが戦力はほぼ枯渇しており、またロシア国内でも革命が起きたため、両国はアメリカの仲介で、講和条約を結びます。
 1905年8月10日にアメリカのポーツマスで講和会議が開かれ、日本の小村寿太郎と、ロシアのウィッテが、ポーツマス条約に調印しました。その条約の内容は、日本が朝鮮半島の保護権を持つこと、ロシアから南樺太、南満州鉄道の利権、旅順・大連の租借権を得ることなどでした。しかし賠償金の支払いについては実現しなかったため、日本国内では戦争のための増税に耐えた国民が政府を糾弾して暴動となり、日比谷焼き打ち事件などが起きます。

 日露戦争における日本の勝因は~?

なぜ日本は戦争を有利に進め、勝利をおさめることができたのでしょう。大きく2つの勝因があります。まず日本軍の士気が、ロシア軍を大きく上回っていました。当時の日本軍の幹部は、幕末から明治にかけて近代国家誕生のためいくつも戦火をくぐってきた経験をもっており、またロシアに勝たないと国が滅びるという危機感もあったため、優れた作戦を生み出したのです。
 一方のロシア軍は、皇帝をはじめ将軍たちが日本の軍事力をかなり低く見ていたため、軍内部の統率が緩んでいました。また国内の政情不安から兵士たちには厭戦ムードが蔓延し、日本軍の必死な攻撃を前にすると崩壊してしまうような状態だったので、長期に戦線を維持することができませんでした。限られた国力を冷静に計算し、開戦前から戦争終了のタイミングを考えつついかにして勝つかを緻密に準備していた日本軍に対し、ロシア軍は勝利への意欲が低く、兵力を十分に使えない状態だったのです。
 また2つ目の理由として、日本はイギリスを味方につけたことで、軍事面と財政面ともに支援を受けることができたという点があります。軍艦を動かすための石炭の調達に関して、イギリスはロシアに対して妨害工作をおこない、日本に優先して調達できるようにしました。
 さらに、膨大な戦費を賄うため日本政府は公債を発行しますが、その引き受けに関してもイギリスが便宜を図り、日本を助けました。講和条約の仲介にアメリカが登場することも、イギリスとの同盟が大きく作用しています。

【公益のための自己犠牲】という、素晴らしい生き方をテーマにした童話です。
大富豪でも貧しい人でも、善い人でも悪い人でも、賢い人でもそうでない人も、
いずれ肉体は死を迎え、魂が天に召されます。
その最期の瞬間に、笑顔で悔いなく他界できるのは
『自分中心に生きた人生』と『他人のために生きた人生』のどちらでしょう~?
どちらの人生の方が、後悔しないでしょうか~?
あなたはどちらだと思われますか・・・?


 
新美 南吉について
ごんぎつね(英訳あり)
手袋を買いに(英訳あり)
でんでんむしのかなしみ
久助君の話
狐(きつね)
おじいさんのランプ
王さまと靴屋
はんだ山車まつり