”新美南吉 ” と ”ごんぎつね”
 
南吉の作品は全部でいくつあるのでしょうか~?
 童話123編、小説57編、童謡332編、詩223編、俳句452句、短歌331首、戯曲14編、
随筆等17編とされています。題名しかわかっていない作品や、
同じ作品の遺稿などもあって、分類の仕方により、数は変わってくるようです。。
 
南吉はどんな童話を書いたのでしょう~?
 南吉の童話は、物語性が豊かだといわれています。
物語が展開するストーリーの面白さがあるということでしょうか。
 作品の多くがふるさとの岩滑を舞台にし、岩滑の方言や習慣を採り入れながら
書かれていることも大きな特徴です。
また、子どもが大人になっていく過程を心の内側から丁寧に描いた作品も注目されています。
 
南吉はどんな詩や童謡を書いたのでしょう~?
南吉は一口では言いきれない色々の詩を書きました。内容により大きく分けてみましょう。

 ❖ 明るくさわやかな作品
 ❖ はかなく美しい作品
 ❖ つらく悲しい作品
 ❖ ユーモアとペーソスに富んだ作品
 ❖ その他の作品

どれも南吉文学に特徴的なものといえます。
ただ、南吉はあまり大げさな詩や童謡はつくらなかったそうです。
南吉の童話で一番人気のある作品はなんでしょう~?
 やはり「ごんぎつね」だと思います。
でも、「手ぶくろを買いに」が好きな人も「ごんぎつね」に負けないくらいいます。
「久助君の話」のような子どもの心理を描いた作品も注目されてきています。
  
❖ ちなみに~このサイトの管理人は「手袋を買いに」が大好きです。
南吉本人が気に入っていた作品はなんでしょう~?
 どれも南吉にとって大切な作品だったと思います。
そのなかでも「久助君の話」は初めての童話集のタイトルにしようと
考えていましたので、特に思い入れがあったのかもしれません。
どうしてキツネがよく出てくるのでしょう~?
 キツネが持つ神秘的なイメージとコギツネのかわいらしさを愛したのでしょう。
南吉童話には、キツネ以外にも、牛や犬、デンデンムシもよく登場します。
南吉は動物園に行かないと見られないような動物はあまり描かず、
身近にいる動物を好んで物語に登場させました。

 また、南吉は民話からストーリーの面白さを学ぼうとしていました。
民話にはキツネが魅力的なキャラクターとしてよく登場しますから、
その影響もあったのではないかと思われます。
"ごん" は本当にいたのでしょうか~?
 "ごん" は南吉が考え出した物語の中のキツネです。
しかし、岩滑には六蔵狐(ろくぞうぎつね)と呼ばれ、村人から親しまれていた
キツネがいました。六蔵狐に弁当を分けてやった村人が畑にタバコ入れを忘れたら、
六蔵狐が届けてくれたという話も伝わっています。
 南吉が「ごん狐」を書くとき、六蔵狐のことを思い浮かべることがあったかもしれません。
"兵十" は本当にいたのですか~?
 "兵十" は南吉が考え出した物語の中の人物です。
しかし、岩滑新田の江端兵重(えばたひょうじゅう)という人が、
はりきり網で魚を捕ったり、鉄砲で鳥などを撃つことが好きだったので、
この人がモデルになったのではないかと考えられています。
ごんぎつね」はいつから教科書に載っているのでしょう~?
 昭和31年に大日本図書という出版社が初めて4年生の国語科教科書に採用しました。
それからだんだん採用する出版社が増え、
昭和55年からはすべての教科書に載るようになりました。
どうして "ごんぎつね" という名前になったのですか~?
 はっきりはわかりませんが、岩滑の北にある権現山(ごんげんやま)から
とったのではないかと考えられてます。その理由は、南吉がノートに書いた
下書きの原稿が「権狐」で同じ漢字を使っていること、権現山の辺りには
南吉が小学生の頃まで実際にキツネが住んでいたことなどがあげられます。

 また、「手に負えないいたずらっ子」「腕白小僧」という意味で「権太」(ごんた)
という言葉がありますので、「いたずらぎつね」という意味がこめられているかもしれません。
 
童話「ごんぎつね」の里山、権現山は五郷社(古くは権現社)の鎮守の森として、
今なお豊かな自然を残し、その景観は見る者に安らぎを与えます。
ここは新美南吉の童話「ごんぎつね」の舞台になったと言われ、
その昔はキツネも多く生息していました。
近年でも、この森で野生のキツネが撮影されています。
 
ごんぎつね」に出てくる "中山さま" ってどんな人ですか~?
 戦国時代、中山勝時という武将が岩滑を治めていました。
勝時は徳川家康の母である於大の妹を妻にしていたので、家康の叔父にあたります。
昭和の初め、その子孫が岩滑に戻ってきて、南吉の家の近くに住んでいました。
南吉は中山家によく出入りし、昔の鉄砲やよろいを見せてもらったり、
この地方の民話を聞いたりしていました。
 
ごんぎつね」に出てくる "はりきり網" ってどんな網ですか~
 大雨が降った後に池から落ちてくるウナギを川の下流で捕るための網です。
普通は待ち網といいますが、川幅いっぱいに「はりきって」使うため、
岩滑では "はりきり網" と呼んでいました。
 
ごんぎつね」に出てくる "おはぐろ" ってなんでしょう~?
 結婚した女性が歯を黒く染める習慣で、
「ごんぎつね」が書かれた昭和の初め頃には、まだしている人がいました。
ごんぎつね」に出てくる "赤い井戸" ってどんな井戸~?
 半田市の隣の、常滑市で焼かれる土管を利用した井戸です。
素焼きに近く赤っぽい色をしていて、江戸時代から作られていました。
大正時代に入ると黒い釉薬(ゆうやく)のかかった立派なものが流行りましたが、
すべてが黒いものに変わったわけではなく、赤いものも使われ続けました。
ごんぎつね」に出てくる "おねんぶつ" ってなんでしょう~?
 亡くなった人の一周忌や三周などの年忌に、親戚や付き合いのあった人が集まり、
お坊さんと一緒に仏壇の前でお経や念仏を唱えることです。
終わった後、お茶を飲んだり、食事をしたりしました。
外国でも南吉の童話は読まれているのでしょうか~?
 画家の黒井健さんによる絵本『ごんぎつね』(偕成社)が
フランスと中国で出版されているほか、
同じ黒井健さんの絵本『手袋を買いに』(偕成社)がフランス、アメリカ、中国、韓国で
出版されています。また、最近は中国で南吉の童話集や絵本が次々に出版されています。
 
「ごんぎつね」フランス語・・・挿絵・黒井 健
 
「ごんぎつね」について
昭和女子大学名誉教授・児童文学者 西本 鶏介  
 
 わずか二十九歳で亡くなった新美南吉。生前の童話集としては「おじいさんのランプ」が一冊あるだけです。にもかかわらず、いまや南吉童話は、同じく生前無名であった宮沢賢治の童話と並んで日本近代童話の傑作として広く読まれています。
 その理由は、どんなテーマのお話であってもストーリーが起伏に富み、面白くて味わいのある作品になっているからです。戦前の童話作家の中で南吉ほど子どもという読者を意識して書いた作家はありません。つまり興味をもてるストーリー性がなくては、子どもの心をとらえることはできないと考えていたのです。
 とりわけ「ごんぎつね」は子どものみならず、大人が読んでも深い感動を与えずにはおきません。
「ごんぎつね」の幕切れの部分を見ても、いわゆる善意の美しさを描くのではなく、せっかくの善意の通じあわないかなしみが描かれているからこそ読者の胸を打つことになります。「兵十」が病気のおっかあにくわせるためにとっていたうなぎとは知らずに逃がしてしまった「ごんぎつね」が、罪のつぐないに、栗やまつたけを届ける。でも、その届け主が、「ごんぎつね」とは気づかず、にくいきつねとして「兵十」がうちころす。その瞬間、「ごんぎつね」のやさしさがはじめて「兵十」に伝わる。なんともドラマチックな、そしてショッキングな描き方でしょう。信じあおうとして信じあうことのできない人間の弱さまでも象徴されているような気がしてなりません。それ故に「ごんぎつね」の、けだかいまでの善意が、やさしい心を持ちましょうなどという大甘な教訓とはちがうしたたかな哲学とまぎれもない文学の感動を与えてくれるのです。
 なにも童話の中でそこまで描かなくても、あるいはむじゃきな「ごんぎつね」のいたずらは死をもってまでつぐなうほどの罪だろうか、幼児にはきびしすぎると思う人があるかもしれません。しかし、幼児とて温室の中ばかりで育てることはできません。この「ごんぎつね」と「兵十」とのかかわりを通して、本当の人間らしさとはなにかを、考えさせるべきだと思います。またそのことを幼児なりに考えることのできるすぐれた作品なのです。
 ちなみに、南吉がこの作品を書いたのは十八歳の時、貧しい畳屋の子として生まれ、四歳で実母を亡くし、不治の病で、太平洋戦争が始まったばかりの暗い時代に死んでいった南吉の短い人生を思う時、この作品は南吉の祈りにも似た弱い者への必死なはげましのように思えてなりません。
 
  作 : 新美 南吉(にいみ・なんきち)
1913年(大正2年)愛知県生まれ。本名は新美 正八(旧姓:渡邉)
4歳で実母を亡くし、その後 継母である ”しん” に育てられました。
しんは養子である南吉と実子を分け隔てなく愛したそうです。東京外国語学校卒業。
1931年、18歳の時に雑誌「赤い鳥」に童話「正坊とクロ」を投稿、初入選し掲載されます。
翌年、同誌に代表作となる「ごんぎつね」を発表。
以降、数多くの童謡、童話、小説、詩などを執筆しました。
南吉は生涯をかけて、「生存所属を異にするものの魂の流通共鳴」を追及。
その思想は彼の作品にも表れています。
1943年(昭和18年)結核により29歳で夭折。その作品は 今なお多くの人々に 愛され続けています。
 
  絵 : 岩本 康之亮(いわもと・こうのすけ)
1924年 島根県に生まれる。大阪美術学校油絵科卒業。
1955年頃、油絵より童画に転じる。児童文化功労賞受賞。
主な作品に「ぼくのくろう」(小学館)「四季のうた」(世界文化社)
「みにくいあひるのこ」「ようせいアルブル」(以上、チャイルド本社)、
「ひよこ」「おんどりとえんどうまめ」(以上、ひさかたチャイルド)などがある。
新美 南吉(にいみ・なんきち)について
   生い立ち
1913年7月30日、畳屋を営む父・渡邊多蔵、母・りゑ(旧姓・新美)の次男として生まれる。戸籍上の出生地は多蔵の実家の半田町字西折戸61番地の3(現在の半田市新生町1丁目99番地)となっているが、実際は畳屋を営む半田町字東山86番地(現在の半田市岩滑中町〈やなべなかまち〉1丁目83番地)と推定されている。前年に生まれ18日後に死亡した兄「正八」の名をそのままつけられた。多蔵は講談好きで講談の本も良く読んでおり、講談に出てくる英雄「梁川庄八」をもじってつけた。また死んだ兄の分とあわせて二人分の知恵と身体を持つようにとの願いもこめられている。りゑは出産後から病気がちになり、1917年11月4日午前1時、29歳で死去する。多蔵は南吉を実家に預け、再婚相手を探した。1919年2月12日、多蔵は酒井志んと再婚。同月15日に異母弟・益吉が生まれている。 1920年4月1日、半田第二尋常小学校(現・半田市立岩滑小学校)に入学。おとなしく体は少し弱かったが成績優秀だった。あだ名は「正八」をもじった「ショッパ」

 南吉の実母・りゑの実家の新美家ではりゑの弟・鎌次郎がなくなり、跡継ぎがなくなってしまった。そこで南吉が養子に出されることになったが、当時の法律では跡取りの長男を養子に出すことを禁じていた。多蔵は、1921年7月19日志んと離婚。多蔵と南吉は祖父の六三郎の籍に入る。同月28日、8歳の南吉は祖父の孫として新美家と養子縁組させられた。南吉は養母・新美志もと二人暮らしをはじめるが、寂しさに耐えられず、5か月足らずで渡邊家に戻る。12月3日多蔵と志んは復縁したが、南吉の籍は新美家のままだった。この出来事は幼い南吉にとって大きな衝撃であった。ただし、家族仲は良く、志んは南吉を実子と同じように扱い、南吉は異母弟の益吉をよくかわいがっていた
 
   中学時代、創作
 1926年3月20日、半田第二尋常小学校卒業。成績優秀で「知多郡長賞」「第一等賞」を授与される。卒業式では卒業生代表として答辞を呼んだが、この答辞は教師の手を入れず、南吉一人で書き上げたものだった。畳屋の多蔵は息子を進学させるつもりはなかったが、担任の伊藤仲治が渡邊家に通って説得する。学校の先生になれると聞いた多蔵は進学を許可。4月5日、南吉は旧制愛知県立半田中学校(現・愛知県立半田高等学校)に入学する。南吉は多蔵に進学を反対されたことを終生忘れず、のちに巽聖歌に「家は貧乏、父親は吝嗇、継母は自分をいじめる」と生い立ちを語っている。中学で南吉は児童文学に向かうようになり、1928年2月、校友会誌『柊陵』第九号に『椋の實の思出』童謡『喧嘩に負けて』が掲載される。その後様々な雑誌に作品を投稿する。1929年5月『張紅倫』、6月に『巨男の話』を脱稿、弟の益吉に朗読している。友人たちとも自作を持ち寄る朗読会をはじめたが2回で終了し、9月1日、同人誌『オリオン』を発行。10月、『愛誦』に掲載された童謡『空家』から「南吉」のペンネームを使いはじめた。『オリオン』は翌年1月1日の新年号(5号)で終刊。その後は日記帳に作品を書き始める。 半田中学校卒業直前、『赤い鳥童謡集(北原白秋編)』を読んで感銘を受ける。裏表紙に「一九三一・三・四 中学卒業式の前の日、現在地球上にこれよりすぐれた童謡集はないと思ふ。新美正八」と書き入れ、以後白秋に心酔した。南吉の実家は、多蔵が畳屋、志んが下駄屋を営んでおり、南吉には離れの家が与えられていたが、2月10日、離れが火事で全焼する。当初、南吉の火の不始末を疑われ、結局原因はわからず仕舞いとなったが、南吉は大きな衝撃を受けた
  
   代用教員、北原白秋との出会い
 1931年3月4日、半田中学校を卒業。南吉の希望は児童文学者の大西巨口や菊池寛のように大学に行って、卒業後は新聞記者で生計を立てながら作品を書き、いずれは記者を辞めて文筆業だけで食べていくことで、早稲田大学に進学を考えていた。しかし多蔵が許すはずもなく、結局岡崎師範学校を受験する。結果は不合格。体格検査で基準に達していなかったためといわれる。南吉は小学校時代の恩師の伊藤仲治をたずね、母校の半田第二尋常小学校を紹介され、代用教員として採用される。
 『赤い鳥』5月号に南吉の童謡『窓』が掲載される。主催者の北原白秋を尊敬する南吉は喜び、教員生活の傍ら創作、投稿を続ける。8月号には童話『正坊とクロ』が掲載された。8月31日、代用教員を退職。南吉は東京高等師範学校の受験を考えていた。
 9月、童謡同人誌『チチノキ』に入会。白秋の愛弟子の巽聖歌や与田凖一と知り合う。またこの頃から木本咸子との交際が始まり、7月に初めてデートしている
 12月、上京して東京師範学校を受験するが不合格。しかし巽や与田と会い、同じ下宿「ミハラシ館」で寝泊まりしたこと、巽の紹介で北原白秋の家を訪ね、白秋との対面を果たし感激するなど充実した日々だった。また巽から卒業生の半数が教職に就いているという東京外国語学校の受験を勧められる。翌年1月2日帰郷
 
   ごん狐、外語学校
 1932年、『赤い鳥』1月号に『ごん狐』が掲載される。帰郷した南吉は両親に外語学校受験を願い出て許可される。 3月、東京外国語学校英語部文科受験。志願者113人中合格者11人という狭き門をくぐり、見事合格。4月入学、上京。当初、結婚した巽聖歌の家に下宿し、2学期に学校寮に入った。寮のある中野区上高田には巽の他、与田凖一、藪田義雄も転居し、南吉は充実した学生生活を送った。また白秋指導のもと童謡を創作、『赤い鳥』に掲載された。しかし、1933年4月、白秋が鈴木三重吉と大喧嘩の末『赤い鳥』と絶縁。南吉もこれに従い『赤い鳥』への投稿をやめる。さらに『チチノキ』が経済的理由のため休刊。南吉は新しい童謡同人誌発行を計画するが、門下の分裂を恐れる白秋が反対したため断念。作品発表の場を失ってしまう
  7月、与田凖一の紹介で長編童話『大岡越前守』執筆するが、出版社から史実と違うという理由で拒否される。この原稿が日の目を見たのは南吉死後のことである。 1934年、2月16日、第一回宮沢賢治友の会出席。 2月25日、結核のため喀血する。南吉は実家に帰り1か月あまり療養したのち、4月に学校に戻る。 1935年、2月11日、チチノキが1年半ぶりに発行され、童謡や翻訳を発表するが、5月廃刊となる。フランス語科の河合弘に自分から声をかけ、友人になる。5月、巽が精文館から幼年童話の依頼を回してくる。南吉は「デンデンムシノカナシミ」など50篇ものカタカナ童話を量産するが、無名の新人という理由で出版不可となる。しかし、作品を書いた経験が南吉にとって大きな自信になった。    8月、木本と別れる。病弱な南吉が結婚に躊躇したのが原因だった。



 
ごんぎつね(英訳あり)
手袋を買いに(英訳あり)
でんでんむしのかなしみ
牛をつないだ椿の木
久助君の話
狐(きつね)
おじいさんのランプ
王さまと靴屋
はんだ山車まつり