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現地活動 2012年現地活動報告 2004年 2003年 2002年 ◎5年ぶりのカブールSAC「ウミード」訪問日記 00000000000000000000事務局長 稲葉一八 アフガンの治安不安のために2007年に発出された危険情報「退避を勧告します。渡航は延期してください。(真にやむを得ない事情で現地に滞在せざるを得ない場合は、政府機関、所属団体等を通じて組織としての必要かつ十分な安全対策をとってください。)」が未だ継続中でしたが、カブールSAC の子どもたちの現状を自分の目で確認するため「ウミード」を訪問しました。 10月5日(金):ほぼ予定通り現地時間1:10頃にデリー・インディア・ガンディー国際空港に着陸、トランジェット用待合室ではなく入国審査場所に行ったのが起因して、数々のトラブルに会い、その上トランジェット待合室での手続きで長時間かかったこともあり、国際ターミナルの多くの免税店、店、食べ物店などが並ぶ出国待ち会いスペースにやっと出られたのは5:20(日本時間8:50分頃、時差3:30分)、疲れました。空港内はカーペット敷きで豪華です。ここでカブール行きのサフィ・エヤーウエイ14:45出発を待つことになる。出発便の出発ターミナルと時間を電光掲示板で確認したら、搭乗予定の4Q248便は出発が16:45の2時間遅れとなっていた。待ち時間が延びた。朝食を詰め込み、8時ごろ待ち会いロビーの長椅子で横になり眠ってしまった。気が付いたら10時を過ぎていた。 サフィエアに搭乗(2006年イスラマバードからカブールまで乗ったアリアナに比べ内部などが明るい)、キャビンアテンダントCAがスカーフを外した、思わず写真を撮った。カブール着は2時間遅れの18:00頃(カブール時間)になる予定とアナウンス。
既に暗くなったカブールの市内を走る、広い道路の両側の新しい建物とネオンが目につく、特に結婚式場のネオンがキラキラしていた。今日は金曜日、広い道路に多くの車が走っている、間もなく、高架になったコテサンギ交差点をスムースに過ぎ、舗装道路が終わり、車のライトに浮かぶ砂埃が多くなりはじめたら、見慣れたウミード近くの道路だ、そして左折して脇道に入ると直ぐにウミードに 着いた。新しく出来た西の正門から入り、車を降りると、薄暗闇に、子どもたちが持った歓迎幕が目に入る、子どもたちが待っていてくれたのだ。花吹雪の中、花束を受け取る、感激。今日は金曜日で休日であるが、私が来るのでウミードに居て、しかも2時間遅れたのに待っていてくれたのだ。申し訳ない。早速、荷物を守衛室に隣接するゲストルームに置いて、レザ氏の案内で食堂へ入る。 夕食もせず待っていてくれた子どもたちにレザ氏が紹介してくれた。一緒に食事をする。食事後、早々にゲストルームに戻るとベッドが2つ準備してあった。レザ氏の配慮で、私が安心して眠れるようにトラブが隣のベッドで寝てくれると言う。温かそうな新しい布団がセットしてあった。でも寒さに弱いのでその布団のなかに持参した寝袋を入れ、潜り込んだ。疲れていたのだろう、直ぐに寝入った。 10月6日(土):朝早く目が覚めたがトラブは既に起きていた。今回は出来るだけウミードの子どもたちと同じ生活をしようと考えていたが、初めから子どもたちの中に入って行くのは遠慮し、写真もしばらくは我慢し、信頼関係が出来てから撮ることにした。ゲストルームの脇で子どもの声がしたので、外へ出た。6時半ごろ、ブランコや滑り台で遊んでいる子どもが数人いた。トラブと食堂へ行くと、既に朝食が始まっており、早速2人分のナンと少しのバターとお茶の用意をしてくれた。5年ぶりのナンが美味しかった。 子どもたちと話もしないで、朝食を終えた。子どもたちも少し距離を置いて私を見ているような気がした。無理もない、顔見知り子どもは半数ぐらいである。子どもたちも見知らぬ老人の出現に少し戸惑っているのであろう。 朝食を終えて外に出ると、ゲストルーム棟の南にあるウミードの正面玄関に向かって整列していた生徒たちが、並んで教室に向かっていくところであった。アフカル高校の授業は7時から始まると言う。
8時ごろザヘル氏と一緒にウミード建物の屋上に出ると上空に飛行船発見、監視カメラを搭載しているとのこと。その後レザ氏がウミード内を案内してくれた。ウミード果樹農園のモモ、ブドウが実っているのを見ていると、用務員のザワルがブドウ棚に上って袋に被せてあるブドウを、後でゲストルームに持って行くからと、取ってくれた。ウミード建物の北側に置かれたタンドールを見て、ナン焼き小屋へ、そして図書室、理科室、裁縫室、保健室、改装した中庭のプールなどを見た後、イランNGO寄付で建設を始めた未完成体育施設の横を通って、同一敷地の南に建つアフカル高校へ行く。途中、敷地内に約2m平方の小屋店を出し、菓子や飲み物、学用品小物を生徒相手に売っているホセイシャ(元用務員)に会った。
アフカル高校の校長は昔ウミードで教員をしていて顔見知りのアスマ女史であった。嬉しかった。 各教室の授業風景が校長室のモニターに映し出される設備が設置されていた。素晴らしい。教員室、パソコン教室、授業をしている教室の様子などを見たが最初であるので写真は遠慮した。アフカル高校の屋上へ上がり、塀越しに南隣接のフランスNGOが建設したという運動施設(近隣の学校が体育授業で借りて使用している様子)を見た。屋上からウミードの建物を見たが果樹農園の木がさえぎって全体は見えない。 その後レザ氏の部屋で、政府からの表彰状を再確認し、アフカル高校について尋ねた。アフカル高校は午前と午後の2部制で、午前の部の前半は7:00~9:00(40分授業3コマ休憩時間なし)、その後15分間の休憩時間(裕福な子どもはお金を持ってきて、ホセイシャの店で菓子など買って食べる。ウミードの子どもは食堂へ戻り朝食の残りのナンを食べる)があり、後半は9:15~11:55(40分授業4コマ休憩なし)を済ませて帰宅する。午前の部は原則として女子と年少男子が授業を受ける。午後の部は年長男子中心で午前の部と同じスケジュールで前半13:00~15:00、15分間の休憩があり、後半15:15~17:55の授業をすませて帰宅する。 再びウミードの屋上で周囲の写真を撮ったが、砂埃かガスかわからないが山が霞んで見える。以前設置したソーラーパネルも日によっては埃で覆われて、水で洗い流さないと効果が薄れるとのこと。
昼食のため食堂へ、子どもたちと一緒に食べる。2002年仮施設開設以来この施設にいるナスリンが懐かしそうに、ババジョンと声をかけてきて、メニューを説明してくれた。バミヤー(オクラ)の煮たものにカチャル-(じゃがいも)が少し入っている。それとナン、米、お茶。
昼食後、当番の子どもが台所の隣室でウミード果樹園で取れたアーモンドの殻を砕いて中から実を取りだしていた。食糧貯蔵庫のまとめ買い品や、冷蔵庫内の肉を見せてもらい、改修したプールを見て、ゲストルームへ向かう。ナスリンが何処へ行くのと聞くので、老人には「昼寝」が大事と、何とか通じて納得顔。
少し横になって休憩後、黒服の人がウミード正面玄関付近にいるのが見えたので、近づくと顔見知りのウミードの年長者たちだった。午後の特別授業(宗教指導者になるためのクラスが3つとコーラン授業が1クラス)に出て、外部からの通学生とともに勉強すると言う。女性教室の識字、裁縫、美容の授業に来た女性たちがちらっと横目で見ながら通り過ぎた。 14:40分頃ウミード正門から初めて外の道路に一人で出てみた。貸店舗の様子を見ながら近くを歩く、遠くに大通りが見えたが心配をかけてはいけないと思い、そこまでは行かなかった。写真を撮って10分間ほどで帰った。
10月7日(日):アザーンが聞こえてきた、心地よく目覚め、4:30頃にベッドを離れる。 昨日1日、あちこちで子どもたちと顔を合わせ、ウミード内をウロウロするババジョン(老人)がいることを知らせたので、今日から活動を本格的に始めることにする。 4時50頃、子どもたちの生活している建物に向かうと窓越しに、洗顔、手洗いなど水の音、お祈り前の清浄だろう。台所を抜けて北側の外へ出ると人影が動いている、寒さの中、当番の子ども3名が薪を細かく割り、紙に火をつけてタンドールで湯を沸かしていた。ナン焼き小屋では裸電球の薄明かりの中で、夜間生活指導の先生と子ども2人がナン焼き窯に火をつけていた。小屋内は煙でもうもう、フラッシュで何とか写真撮る。食堂から声が聞こえてきたので中へ入ると、子どもたちが集まってきて、椅子をならべ、各自、食堂の隅に置かれたコーランに関する本から選んで読み始める、小さい子に年長者が字を指で示して、教えている。学校の勉強をする子どももいる。
台所では、当番の子どもが朝食の準備をしている。全員がこの食堂に居ないので、何処で何をしているのかなと思い、廊下へ出て2階へ上がり屋上へ出た。冷たい空気が肌をさす、屋上から食堂を見ると子どもたちの読書する姿が見えた。食堂に戻り、この部屋の明りを供給しているバッテリー(太陽光パネルからの蓄電用)を確認する。5時半頃に勉強とお祈りが終わり、子どもたちが散会した。そして、各自の活動に向かったようだ。外が少し明るくなってきた、当番で廊下や外庭を掃除している子ども、台所北の広場では、年長者の指導で年少者が元気な声を発しながら体操を始めた、その横でタンドールから勢いよく煙が上る、湯が沸いたようだ。 用務員のワハブが一人で作っていて、まだトタン屋根が未完の薪小屋を覗くと冬に備えて買いだめした薪が積んであり、その上に七面鳥がいた。その隣の小屋には羊が15匹ほどいた。
6時頃、外通路の掃除をしていた子どもの写真を撮り、あちこち歩いた後、食堂に戻ると当番の子どもが机を上げて床にモップをかけていた。6時20分頃、年少者が体操した同じ場所で、年長者が先生の指導で体操を始めた。台所では当番が朝食のジャムやクリームを一人分づつ皿に分けている。6:30頃やっと朝食、実に美味い、正に空腹は最大の美食なり、ナン、お茶(子どもたちは砂糖を入れて飲む)、 カイマーク(乳脂クリーム)、 ムラボー(ジャム)で朝食に米は出ない。
朝食を終え、6:50頃外に出ると通学生徒がブランコ、滑り台で遊んでおり、校門から続々と通学生徒が入ってきていた。生徒が校門を入ると直ぐに年長の係生徒が、各生徒の持ち物検査をする、そしてウミード正門玄関前に整列し、朝の集会行事を済ませた後、一列に並んで各教室へ移動して行く。
早速、アフカル高校の教室でパソコン授業、上級生の授業(男教師が担当)、校長室兼教員室や低学年の授業を見て、その後ウミードの教室での1年授業、高学年授業と増築教室での低学年の授業の様子などを見て、7:50頃部屋に戻り一休みした。ウミード゙果樹農園で実ったブドウ、リンゴがベッドに置いてあった。
外で子どもたちの声がするので出てみると休憩時間で遊んでいた。休憩時間後の高学年生の授業を見て回り、その後ウミード屋上に上がり周囲を見渡してみた。空気が汚れている感じを受けた、そう言えば朝焼けも、山も霞んで見えた、それと美しいと記憶に残っていた夕焼けも昨夕はどんよりだった。 そして、やっと昼食、子どもたちと食堂で食べる。ナン、米、お茶(砂糖は出してない)、ナホド(大豆 、小さな肉が一切れ入っている。
午後の部の授業のために登校してきた男子生徒が午前中と同様、ウミード正面玄関前でクラスごとに整列し先生の話を聞いていた。2009年にこのウミードを卒業してアフカル高校の先生になったシュークリアが大きな出席簿を持って生徒を指導していた。増設教室で年少の男女クラスの授業が行われていたのが目についた。
成人女性の裁縫授業を見ていると、ガルディズのコージャハサン村SAC学びの家の責任者アレフシャ氏が来たと言うのでレザ氏の部屋に行き、簡単な挨拶の後、持参した寄贈パソコン、デジタルカメラなどを渡した。とても喜んでいたが、ゆっくり話す間もなく、「暗くなるとガルディズへの道が危険だから直ぐに帰りたい」と、地元の人が不安がるほど治安が悪いのだろう。学びの家の場所は、ガルディズ市内中心部からそれほど離れていないことを確認した。帰国後、衛星写真で探したが、それらしき建物は見当たらなかった。 その後、食堂で日本の支援者やサーベ代表からのプレゼント類を子どもたち渡した。3時半頃サーベ代表のビデオレターを見せ、子ども一人ひとりのビデオと全員で揃って日本語でお礼を言うビデオも撮った。 17時頃、台所で子どもたちが夕食材の準備をしていた、インゲン豆だ。ホセラー(インゲン豆)の中実がルビヤーということを子どもが教えてくれた。新しく来たコックのファフィザ(前のコックは男子出産で交代)が夕食の準備の指導をしていた。食堂では多くの子どもたちがお喋りしながら米に混じったごみや小石を取り除いていた。
今夜、私はザヘル宅に招待され夕食をする。アフガン餃子をマントーと発音したので、中国でもマントーという食べ物があると言ったら驚いていたが、発音が同じだけで中身は異質なものであった。ボラニ、ザクロ・・・など多くの料理が出され、レザ氏、ザヘル氏の息子シャハブ、レザ氏の直ぐ下の弟ザマン氏の息子と一緒に話をしながら楽しく食事をした。シャハブが小まめに食事を運んでいた。 暗くなった帰り道、車で送ってもらった途中、ガードマンが警備していた工事途中の建物の前を通った。大臣の邸宅とのこと。ウミードの西正門前で車を降りて薄暗いウミード内を歩いてゲストハウスの部屋に戻った。8時を少し過ぎていた、明日も早起きしなくてはと思い、直ぐにベッドに潜り込んだ。 10月8日(月):少し寝過してしまったので急いで顔を洗い5:00頃食堂へ行くと、子どもたちは朝の勉強をしていた。最後に皆で声を出してお祈りして5:30頃終了し、子どもたちは各自の役割をするため散会した。その場で残って勉強をする子ども、部屋や庭掃除をする子ども、朝食準備をする子どもなど。 今日の朝食は、バター ???? (マスカ)、お茶、砂糖、ナンだ。ナン焼きが間に合わなかったので、昨日残った冷たいナンを皆食べる。途中で、焼き立てのナンに取り換えてくれた、感謝。美味しくいただき6:20頃食べ終えた。隣の台所でジャミラ(夜間子どもを指導する先生)、ファフィザ(新しいコック)、マスマ(ナン焼き専門)、ファティマ(用務員)と顔を合わせたので少し話をして写真を撮らせてもらった。
西正門で登校してくる生徒の様子を見てから朝礼場所へ行くと、生徒が整列し、先生の話の後、生徒がスピーチをした(1、2名の生徒が交代でテーマ自由で発表する、ことを後で知った)。その後、代表生徒のお祈り独唱、グループで国歌斉唱し、最後に全員で西に向かってお祈り合唱し、クラス毎に一列に並んで教室へ向かい、毎朝朝礼集会の一連の行事を終える。 この場に女性の先生10名と男性の先生2名がいたが、整列指導などは全て年長の当番生徒が行っていた。 余談であるが、最後のお祈り合唱を全員が西に向かって行うが、このウミードの正面玄関を東向きに設計したので、皆正面玄関向かってお祈りすることになる。 部屋に帰り、一休みしているとドアをノックするので開けると子どもが2名いて何かを差し出した。この部屋に子どもだけで訪ねてくることなど5年前までは想像も出来なかった事なので驚いたが、中に入ってもらった。手渡されたものは手紙で、最初、私にと思って感激したが、よく確認したらサーベ代表への手紙であった。ライハン11歳、もう一人は9歳(名前聞き取れず)であった。その後ウミード敷地内のあちこちを歩き回った。ヘリコプターが爆音を響かせて上空を南西から北東に向かって通過した、昨日もほぼ同じ方向、時間であったような気がする。ウミード゙屋上に上がり、道路を挟んで西隣にあるJICAが建てた公立のアセフマイール高校とそのテント教室などの写真撮る。
果樹農園通路で運転手のバシルに会い、用務員のワハブ、クルバンアリと3人の写真を撮った。その後アフカル高校でラジアの低学年授業を見せてもらった。 再度、部屋に戻って一休みしていると、また子どもが2人来てサーベ代表にと手紙を差し出した。ロジア11歳ともう一人も11歳とのことだがまた名前を聞きとることが出来なかった。 その後、ウミード玄関付近で顔なじみの年長の子どもに会った。授業時間帯であるので、何してるの、と聞くと、今は体育の授業できまった先生はいない、と言う、自由時間でタフリーヒ(休憩している)ようだと言ったら、ワルゼシュ(スポーツ)と言って笑っていた。
改装した洗面手洗い室を見た後、レザ氏の部屋へ行った。いろいろなものが値上がりし苦慮しているとのこと、特にナンが約25%も値上がりしたと言っていた。アフカル高校の先生は、午前だけの先生と午後だけの先生合わせて約25名おり、公立高校の一クラスの生徒数が50〜60名であるのにアフカル高校では多くても約30名の少人数クラス構成であるので教員数は多いとのこと。 今日の昼食はインゲン豆煮物、ナン、米それとウミード果樹農園で実ったブドウが添えられていた。 楽しく談笑しながら子どもたちと一緒に食べた後、ウミード正面玄関に行くと、黒装束の数人が目に入った。午後の宗教の特別授業に出るために衣装を変えたウミードの年長の子どもたちだ。食事をしている時などの子どもとはあまりにも異なり、何故かその姿にドキッとした。
特別授業を受ける子どもたちと別れ、部屋に戻った。比較的温かったのでシャワーを浴びることにする。2005年にこの施設が出来てから初めてのシャワーで、何と湯が出てきた、感無量である。頭から足の先までゆっくり洗った後、部屋で大の字になって休んだ。 15:30頃、2009年にこのウミードを卒業したシャナーズ、アリア、ラジアが部屋に訪ねて来てくれた、3人とも同じ大学に通っており、ラジアはアフカル高校で午前中先生として働いている。3人ともこのウミードのお陰で自立への道が出来たことを感謝しており、日本の支援者の人たちに感謝メッセージをビデオで伝えてほしいと言って、その様子を撮った。 今日の夕食はナスの煮もの、ナン、お茶だけで、お米はなかった。子どもたちと同じテーブルで食事を済ませて部屋に戻った。少し疲れていたのか、早めにベッドに潜り込んで、寝入ってしまった。
10月9日(火):食堂へ行くと既に朝の勉強が始まっていた。いつものようにお祈り合唱の後、子どもたちは各自の役割当番へ向かう。当番の子どもが朝食のジャム、クリームを小皿に分けている、外で体操をしている小さい子どもたち、そして庭や部屋、廊下掃除、お茶準備、ナン焼きの手伝いなど当然のように行っていた。そして6:30頃に朝食だ7日朝食と同じメニューだが温かいナンが実に美味しい、思わず涙が出る。 朝食後、授業前の朝礼行事を見て部屋に戻り、休息した。もう一度ウミードの外へ出て見ようと思い立ち西正門に行き、そこで門番役の用務員のクルバンアリに会い少し談笑した後、7:50頃何気なく一人で正門から外へ出た。6日に少し出たことがあるので、この辺りは危険でないだろうと勝手に判断し大通りまで一人で歩いて行った。大通りは自動車で混雑しており、騒々しい、乗合バスも満員状態で男女混乗である。道路工事もしていて活気にあふれているが埃っぽい。夢中で写真、ビデオを撮り、もう少し遠くまでと思って歩きだすと、知らぬ間にクルバンアリが脇に来ていた。心配して後をついてきたと言う。あまり迷惑をかけては申し訳ないと思い8:10頃に引き返した。
部屋に帰ると、レザ氏がやって来た。レザ氏が自身の病気や体調のことを話してくれた。以前体調が悪かった時期にはUSA製で1錠$12.5〜13もする薬bencarを1日2錠飲まなくてはならなかったが、現在は1ケ月に10錠程度で何とか体調が維持できるようになったと。帰り際に、今日の夕食はレザ氏宅で、日本のウドンに似たオーシュをご馳走するから是非来てほしいと誘われた、感謝して伺うことにする。 その後、ロヤが元気な様子で部屋に来てくれた。7日に食堂で子どもたち皆にサーベ代表のビデオレターを見せた時は、体調が悪くてその場にいなかったので、そのビデオを見せた、食い入るように見て、涙ぐんでいた。ロヤから日本の皆様への感謝ビデオレターも撮影した。いろいろな話をしたが、ロヤが通う高校についても話してくれた。ウミード敷地内にあるアフカル高校は現在10年生までしかなく、ウミードの子どもたちの中で11年生はロヤ一人であるので、ロヤは西隣の公立アセフマイル高校に今年から11年生に編入し12年生まで通うことになったと。ロヤのクラスは教室に51名もいて授業中は騒がしく、後ろからは黒板の字が良く見えないし、先生の声も良く聞こえないとのこと。そして午前中は男子が授業を受け、午後の部は女生徒対象なのでロヤは13:00から行くと言う。あまり楽しいクラスではなさそうな話しぶりだった。 レザ氏の娘さん3人がここで働いており、2人がアフカル高校の先生、1人が女性教室の美容の先生それと息子のトラブも手伝っている。 また、気になっていたマリアムのことをロヤに尋ねた。住んでいる所はチャカラで、ここから車で近いと言うが所要時間など詳しくは分からないと。マリアムが仕事をしているか否かは知らないが、結婚して女の子が一人いて幸せに暮らしているようだと言った。嬉しかった。 ロヤと一緒にウミードの外へ行ってみようと思い、門の所まで来てクルバンアリと話していると、守衛室の電話が鳴りクルバンアリが出た、電話はレザ氏からだった。そして、外は危険であるので無暗に出ないように、と止められた、朝方は何も言わなかったのに。 仕方なく部屋に戻った。昼食に行こうと思っていた時、2人の子どもがサーベ代表への手紙を持ってきてくれた。 ロヤとともに昼食のため食堂へ行く。メニューはナホドより粒が大きい豆(ルビヤー:インゲン豆と説明してくれた)がつぶして煮てあるもの、それと、お米、ナン、お茶である。ロヤは食欲がないと言って食べようとしない。後で、特別にシューラ (野菜と米を煮たスープ・・お粥か?)を作って食べると言って、力なく笑っていた、心配だ。
昼食後、ロヤはアセフマイル高校へ出かけた。私はシュークリアが授業をしている様子が見たくてアフカル高校へ行き、ビデオ撮った。そして部屋に戻る途中で、午後の宗教特別授業に出る黒服のウミード年長生徒たちが玄関前で立ち話をしていた、目が合うとニッコリ。その後、柔らかな日差しを浴びながら果樹農園で草を食む羊の群れを見たり、休憩時間にホセイシャの店で菓子類を買う生徒たちを眺めたりと、ウミードの玄関に腰かけてゆったりと過ごした。
以前レザ氏に全員写真を撮りたいと頼んでおいたので15:30頃に子どもたちが中庭に集まって来た。滑り台の上から写真を撮った。その後、先生方の写真も撮った。 部屋に戻りトラブが準備してくれたパソコンでインターネットなどをしているとトラブがやって来た。今日の夕食はレザ氏の家で、アフガンのウドンなるものをご馳走になることになっていたので、トラブが迎えに来てくれたのだ。門の前に止めてあった車に乗り、レザ氏の家に向かった。 10月10日(水):いつものように4時半頃起きて、まだ外が暗い中を食堂へ入って見ていると、子どもたちもいつものように朝の勉強、お祈り合唱を済ませ、各自の役割をするため散会した。食堂に残って日本支援者に感謝の絵を描いている子どももいた。
台所へ顔を出すと焼き立てのナンが目に入った、ウミード自家製のナンの大きさを皆さんに知ってもらおうと、ロヤは嫌がったがナンを持たせて写真を撮った。 その後朝食、いつものようにナン、お茶(砂糖を入れて飲む)、バターだ。食後、食堂を一人で掃除する小さな子どもがいた、当番だと言っていた。 明日はウミードを離れるので、あちこちを歩き回り出来るだけ多くのビデオを撮ろうと思った。 10時ごろレザ氏の執務室で、じっくり話をして要望も聞いた。先ず、建設途中の体育施設について。イランNGOの援助で工事を始めたが、表から見える位置に看板を掲げて欲しいとの要請を断ったため、工事を途中で止めてしまったので、これを完成させたい。周囲にネット張り、床をコンクリートで仕上げたい。工事は自分たちでやるとしても、ネット代約$2000と床のコンクリート材料費$2400が必要である。 次に、アフカル高校の2階部分増築のことに話が進んだ。この建物は孤児でアメリカ軍人と結婚した在米日本老婦人の寄付で建てられたので、セーブアフガンチルドレンの会以外のNGOからの協力も考えているが約$110,000の工事費が必要であると(増築後、教室数が増えるので椅子、机などは日本からの寄付を期待している)。また、電気料金が高騰し続けているのでその対策の一つとして太陽光発電施設を考えている。現在、井戸水汲み上げポンプ1KW用を2台使用しているので、出来ればこれを太陽光発電で動かしたい。 1Kwh 発電太陽光パネル設置費用が$9482であるので約2万ドルが必要となる。その他、諸物価、特に食材の値上がりの話もした。政府や宗教関係者、近隣住民や孤児を預けに来る人等様々な問題に対応し、重責に耐えているレザ氏の話を聞いていたら、だんだん気持ちが重くなった。
12時少し前にレザ氏の執務室から、部屋に戻り明日ここを離れるので部屋の写真を撮った。その後食堂へ向かった。今日の昼食は、米、ナン、お茶それに鶏肉片が2切れ入った豆の煮物であった、肉が美味しかった。ロヤは特別料理で、野菜と米のお粥スープのようなものを食べていたが、皆と同じ豆の煮物も少し口にしていた。2002年仮施設での孤児院開設時からいるロヤ、ナスリン、アジザ、マスマなどが同じ食卓で、いろいろな話をしながら食べてくれた。ナスリンが、ここにずっといれば良いのに、何故帰るのか、と聞いてきたり、I miss youと言ったりもした。ロヤはとても寂しそうな顔をしていた。 明日帰ることをうすうす知った子どもたちが、食後私のまわりに集まってきた。それではと記念写真を撮った。また、日本から持参したSAC会報2012年版の自分の顔写真を見つけて喜んでいたが、新しくこの施設に入った子どもが自分の写真が無いと、悲しそうな顔をしたので写真を撮ったらニッコリ。
部屋に帰り、少し温かかったのでここでの2度目のシャワーをした。今回も適温の湯が出て、快適であった。ひと休みした後、明日は出発なので簡単な荷造りを始めてちょっと困惑した。自分で頼んでおいたので仕方がないが、アーモンド5Kg、クルミ5Kgさらに大きなナンが5枚(2枚で良いと言ったはずだが)とかなりの量だ。その他に日本SACスタッフへの土産にとアーモンド2Kgと干しブドウ2Kgがある。それだけではない、サーベ代表が頼んだという、絨毯2枚とタンブール(ワハブが傷つかないように袋を作ってくれた)もある、計量するまでもない、完全に重量オーバーです。どうするか、途方に暮れる。 後で、ザヘルが顔を出し、タンブールは預託が断られたら機内手荷物で良い、と言って笑っていたが、肩に担いで持って帰るのは私ですよ。 仕方なく、自分の荷物は全てリックサックに押し込み、機内手荷物とすることにして、ゴロリと大の字になった、気が付いたら少し寝ていたようだ。 夕方、明日の子どもたちへのお別れの挨拶をダリ語でと考えていると、16時30分頃黒服のロヤ、ナスリンと白いガウンを着たアジザが部屋にやってきた。坐ると直ぐにナスリンが再び、何故帰るのかと、聞いてきた、応えに詰まる。椅子に置いてあった12年SAC会報を興味深そうに見て、質問もし、またいろいろな話もしてくれた。ここにいる3人とヌルビビとマスマの5人が2002年開設当初からこの施設で生活しておりアジザとマスマは姉妹だと言う。そう言われれば似ているような気がした。そしてナスリンもヌルビビと姉妹だと言う、へーと驚き、本当かと聞くと、冗談だと言って笑った。こうして冗談を言ってくれるようになったのかと、とても嬉しかった。ロヤは、またサーベ代表のビデオレターを見て、涙ぐんでいた。後から、サーベ代表にとても会いたいと言って手紙を託された。食堂でこの5人と一緒に写真を撮ることにして別れた。
18:00頃夕食のため食堂へ、食堂でコンピュータのテキストを開いて勉強している子どももいた。今日の夕食は、米、ナン、ルビヤー、お茶である。多くの子どもたちが同じ食卓で食べてくれた。時々興味深そうに私の様子を見ては隣の子と顔を見合わせて何か言っていた。子どもたちと何の違和感もなく食事が出来るようになったことが嬉しい。でも明日はお別れです。 食事後、開設当初からいる昔馴染みの5人と記念写真を写してもらったが慣れていないのでしょう、ピンボケでした、これも楽しい思い出です。その後、多くの子どもたちが集まってきて皆で記念写真を撮った。ナスリンが、明日はお別れなので今夜はここで遅くまで語りあかそう、と言い皆も肯いた。「君たちは若いから寝なくても勉強するのが一番大切です、しかし私のような老人は寝るのが一番大切です」と言って、ナスリンが、それでは10時まで、と言うのを、私は毎晩8時には寝ている、と言ったら、皆あきれ顔で笑っていた。でも最後には、ホダーフェズ、ファルドゥーで、忘れられない楽しい一時であった。
10月11日(木):4時少し過ぎに起床した、アザーンが心地よい。洗顔して、5時少し前にまだ暗かったが外に出た、今朝は空気が澄んでいるのだろうか綺麗な三日月と沢山の星が見える、でも肌寒い。食堂付近から子どもたちの声が聞こえる。いつものように、食堂に集まり、朝の勉強、お祈り斉唱、そして各自の仕事に向かうのだが、今日は散会する前に、ロヤが皆を呼び止め、席に着くようにと伝えてくれた。私のお別れの挨拶のためだ。立ち上がると、皆の視線を感じ、覚えたつもりだったが、頭が真っ白になり、書いた挨拶を読み上げることになってしまった。でも子どもたちが真剣に聞いてくれている様子に、胸が熱くなり時々言葉に詰まった。ロヤがビデオを撮ってくれた。挨拶が終わると、子どもたちはそっと私の方を見て無言でそれぞれの当番仕事に行った。
6時20分頃から朝食、ナンとお茶だけであったが子どもたちと食べる最後の食事、噛みしめた。 7時少し前、いつものように生徒たちはウミード正面玄関に向かって整列し、朝礼の一連の行事が始まった。ウミードの子どもではない多くの子どもたちが、ちらちらと私の顔を見て、微笑んでくれたり、並んで教室に向かう時に近くに来て声をかけてくれた子どももいた。嬉しかった。 部屋に帰り、大量の荷物を何とかまとめ、最後の荷物点検も済ませて、出発までまだ時間があるので、そっと門から西側の道路へ出た。門のすぐ脇の建具製作店やブリキ加工店などを眺めていると、赤いポリタンクの手押し車を引いた親子が目にとまった、後でアイスクリームの販売車だとザヘルが教えてくれた。もっと眺めていたかったが、また心配をかけてはいけないと思い7,8分でウミードの中に戻った。いつの間に来たのか、私の荷物を積むため、車がゲストハウスの横まで来ていて、ワハブが部屋から荷物を全て運んでくれていた。 朝礼を行う広場の隅に腰をおろし、ぼんやりとウミードの建物を改めて眺めていたら、例によってスポーツの授業時間なのだろう、子どもたちが近くに来て話しかけてくれた。記念に写真を撮った。スポーツの先生らしき人が、遊戯を指導していた。 授業時間中なのにババジョンが帰るので特別に見送りの時間を許されたとナスリン、アジザなど数人が駆け寄ってきた。ナスリンが、夜8時には寝るババジョンの絵をくれた、絵の横にI miss you! とあった。 マハジェラが差し出したアフガン硬貨の絵柄(マザリシャリフのモスク)が気に入ったので、日本の10円硬貨(平等院絵柄)と交換してもらった。しばらくマザリシャリフが話題になったが、行ったことがある、とか、行きたいとか、はっきり聞き分ける語学力はなかった。
当初、出発予定は10時半頃と聞いていたが、11時少し過ぎに車が来たと言うので、子どもたちと別れて西正門から外に出た。車にはすでにザヘル氏が乗っており、私の荷物を積み込んだ後、ザヘル氏の家に迎えに行って来たと言う。門の付近に子どもたちが見送りのため集まってくれていたが、皆との別れを惜しむ間もなく、14:50発のエヤーインディア244便 に乗るため、11時20分頃レザ氏の運転でウミードを出発した。大通りに出ると車はスピードを上げ、途中で一度コテサンギの立体交差の道路上で撮影のため止まっただけで、かなりのスピードで飛行場を目指した。
安全を考えてレザ氏が無益な場所で停車しないと配慮してくれたのだろう。その上、ウミードから飛行場までの道は、危険度の高い大使館や政府関係の建物のある官庁街を通らないように、カブール大学の北側からコンチネンタルホテル丘の下を通り、迂回してくれた。 道路に沿って従来型の店も並んでいたが、確実に主要道路は整備されつつあり、建物も建て替えが進み、大きなコンピュータ関連の大学の建物など立派なビルが目についた。途中、トラブが路上まで見送りに来てくれた、通っている大学が近くにあるとのこと。 車窓から、中央分離帯で座り込んでいる多くの薬物使用者、子ども連れのブルカ女性、屋台でバナナや果物などを売る男性などを見ていると、空港近くになって近代的な高層アパート群が目に飛び込んできた、建設中のものもある。ザヘル氏が、この辺りのアパートはかなり高額であると教えてくれ、貧富の差が広がっていることを強く感じた。 12時頃、空港近くで車を降りて最初の検査、再び乗車し2番目の検査場で荷物を下ろすと、車はこの先入れないので、レザ氏と別れた。後は徒歩で、新しい休憩所建物を通り抜け、3度目の簡単な検査を受けて国内線ターミナル近くの駐車場へ、その後も4度目、5度目の検査を受け最後に国際線ターミナルの入り口で簡単なチェックの後、やっとターミナルの中へ入れたが、ここでも最終荷物チェックがあった。 2007年の出国時には空港前の路上に装甲車がいて、あちこちに武器を携帯した米軍兵士が目を光らせていた記憶がある。それに比べれば、今回は検査する場所や回数は多くなっていたが検査官は穏やかな顔つきであった。警備隊員も殆どがアフガン人で、軍服の米軍兵3名を見かけたが駐車場で雑談していた。 出国検査で長時間待たされ13時45分にやっと出発待合室に入り、1時間後にはカブールを飛び立った。 000000000000000000000000000000000002012年現地活動報告 2004年 2003年 2002年 |