依佐美送信所記念館



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マルコーニと依佐美送信所

 無線電信を発明したのは、発明家のグリエルモ・マルコーニだと言われており、彼はその功績を讃えられ「無線通信の父」と呼ばれています。そのマルコーニと依佐美送信所との関係を紹介します。

 

 

1、マルコーニの逆L型フラットトップアンテナ

 (図-1)は1905年に発表された「マルコーニの逆L型フラットトップアンテナ」です。このアンテナの形状はまさに依佐美送信所の超長波逆Lアンテナ形状と酷似しています。

時代背景から、依佐美のアンテナは下記マルコーニのアンテナを参考に建設されたと推測します。

   
図-1)マルコーニの逆L型フラップトップアンテナ(1905年) 図-2)左記の水平部アンテナパターン

(図-2)は(図-1)のアンテナの垂直部分の長さを調整したときに得た指向性のうち、最も強く指向性が得られた結果です。(注-1)

0度(360度)と書いてあるのは送信所の位置で180度はアンテナ(図-1)の先端部の位置にあたります。このアンテナは、2,000mのアンテナ線を200本伸ばし、水平部は幅330mに渡って平行に張って、波長はおおよそ4,000m (75kHz)用といわれ、高さは分かりません。後に大西洋横断の通信回線では送信受信は別々なアンテナで、送信用は長さ600m、受信用は1,600mでアンテナ線はわずか2〜4本になっていました。

(図-2)は現在の指向性のあるアンテナの指向特性とそっくりです、この図から0度(360度)付近が最も強く放射しており、マルコーニ社はこの角度付近に逆Lアンテナの指向性があると判断したもの推測します。(注-1)

上記マルコーニのアンテナにたいして依佐美のアンテナは高さ250m,水平部1400m,幅500mに16本のアンテナ線が張ってありました(図-3)

 


(図-3)依佐美送信所超長波逆L型アンテナ(依佐美送信所記念館ジオラマによる)
このアンテナ線は合計16本並列であるが等間隔ではなく効率向上のため中央部を空けてある
 

逆L型アンテナに指向性はあるか

 マルコーニが逆L型アンテナを発表した当初から学者間で指向性の有無について、議論が闘わされていました。 この議論について「徳丸仁著、電波技術への招待」が詳しいので関係文を引用します。

『そうしているとき、マルコーニも1905年に指向性アンテナとして逆Lアンテナ(図-1)を提案し、その指向性のパターンを示した(図-2)。 この発表は人々に大きな驚きを与えると同時に困惑に揺れた。

なぜなら逆Lアンテナはその前年1904年に、W.ダッデル、J.テーラーによって報告されており、その時彼らは逆Lアンテナには指向性はないといっていたからである。この相反二つの事実は議論を呼ぶことになった。

マルコーニ社のフレミングは1906年に逆Lアンテナには指向性はあってもよいと推論した。一方ドイツのウーラーは1907年に理論計算をしてみても指向性は出ないというのであった。 一時は混沌としたが、ついに J.ツェネックが現れて、この議論に正しい結論が下された。

この逆Lアンテナ自体には指向性を生み出す能力は何もない。しかし大地の導電性が適当なときに、アンテナ導線の水平部分で到来電波が大地と結合して発生した大地に平行な電波成分を受信して、指向性が出るというのである。

マルコーニ社では最初に行った指向性の測定結果に自信を得て、すでに各地にこの逆Lアンテナを建てており、1908年に大西洋横断回線に利用しているほどであった。 しかしよく調べてみると、後に建てられたアンテナの指向性はことごとく異なっていた。人々は結局 J.ツェネックの結論を信じるようになった。』(注-2)

このようなことから、逆L型アンテナには指向性がないことがわかった。

指向性の有無について当時日本でも技術的な検証がおこなわれ下記の記録があります。(注-3)(注-4)

 

4、マルコーニと四日市受信所

 4,1 短波受信機

 当初 、四日市受信所には短波受信機(マルコニ会社製)のB型といわれた受信機が4台ありましたが対欧受信性能は良くありませんでした。しかし1929年(昭和4年)4月にマルコニ会社から派遣されたMiller氏がデモンストレーションのために同社のUG-5型高速度印字機と共に据付け、約3カ月間対英受信を続けた結果そ、の優秀性を確認した逓信省と日本無線電信(株)は、対英受信用としてこれら設備一式を正式発注しました。

 

(図-4)マルコーニ社製短波電信受信機
       RC-24L型(正面)、RC-24V型

(図-5)短波用マルコーニ式指向性アンテナのイメージ
   

 4-2 マルコーニ式指向性アンテナ

  このアンテナはマルコーニ会社最新の設計に係るもの で、高さ85mの鉄塔2基(図-5)(A)鉄塔、(B)鉄塔)約150m隔てて建設し、この間に受信エレメント12条と反射エレメント24条とを懸架し、これによって鋭い指向性受信を行い、混信、空電及びエコー妨害を除去するのに有効でした。構造は例えば「縄のれん」を2枚重ねるようになっており、縄の部分がエレメンと考えればイメージできます(図-5) またこのアンテナは1937年(昭和12年)12月まで使用されました。

四日市受信所の詳細は本サイト「依佐美送信所とペアを組んでいた四日市受信所を参照してください。

(注-5)(注-6)

 

 

マルコーニこぼれ話

  マルコーニは有名な発明家であり科学者でもあります、彼のおいたちや業績は様々な文献や、WEBサイトで紹介されています。そのようなことから本サイトとでは「こぼれ話」的な話題を紹介します。 

5,1 モービル局の元祖

 マルコーニは1901年に実験用モービル局を製作した(下図、図-6)、写真の筒状の物がアンテナ、走行する際は蝶番により後部へ倒し水平になる。

写真天井にいる2人は助手、自動車後部(写真右側)はマルコーニ(右)とフレミング教授(左)。

フレミング教授は「フレミングの左手、右手の法則」等を発明した科学者、マルコーニ社の社員(顧問)として活躍した。

 

 (


5,2 京都で遊ぶマルコーに夫妻
(図-7)

     同夫妻は1933年世界旅行の途中、日本に立ち寄り各地を旅行、(11月16日〜11月24日)歓待を受けた。

5,3アンテナという単語を発明した

 マルコーニは無線の試験で長さ2.5メートルのテント用支柱を使い、彼はそれをイタリア語で「l' antenna centrale 」 (ランテ ナ・セントラーレ)と呼んだので、彼のその装置はl'antennaと呼ばれるようになった。

その結果、(もともと触覚という意味だった)antennaという言葉は、こうして人々の間で今のような意味、つまり電波を送信したり受信する装置という意味で使われるようにな った。(注-7)

 5,4 円グラフを用いてアンテナ放射パターンを描いた

 (図-2)はマルコーニが初めて電波がどのように放射されるか、可視化したものです。マルコーニ社はこのアンテナパターン図をもって売り込み、指向性アンテナ建設を促進しました。現在のアンテナパターの原型です。

しかし後日指向性がないことがわかりました。

 5,5マルコーニの名を冠した地名などあり

イタリアのボローニャ空港は、グリエルモ・マルコーニ空港(Aeroporto Guglielmo Marconi)とも呼ばれている。また、ボローニャ市内にはマルコーニの名を冠した通りがある。

マルコーニの邸宅ヴィッラ・グリッフォーネ (it:Villa Griffone) があったボローニャ近郊の町サッソは、1938年にサッソ・マルコーニと改称された。

サッソ・マルコーニには、マルコーニの墓所とマルコーニ博物館 (it:Museo Marconi) (ヴィッラ・グリッフォーネ)が ある。(注-8)

 

 上記のように「マルコーニ」と「依佐美送信所」は深いつながりがあったことが分かりました。

 

 

<参考資料>

  (図-1)(図-2)(注-2):「電波技術への招待」 徳丸仁 ブルーバックス

  (注-1):「無線の歴史に学ぶ 第7回マルコーニの初QSO」小暮裕明 小暮芳江 CQ ham radio 2014年11月号 CQ出版社

(注-3)(注-4):「無線科学大系」(1928年)中上豊吉編  誠文堂 無線實験社 、「依佐美送信所記念館技術ガイド」

(注-5)(注-6):「海蔵受信所ものがたり」、「ガイドの泉60号」

(図-6)(図-7)(出典)「グリエルモ・マルコーニ」キースゲデス著 岩間尚義訳 開発社

(注-7)(注-8)「Wikipedia」 グリエルモ・マルコーニ 

 

 

 

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