「依佐美送信所」とペアを組んでいた「四日市(海蔵)受信所」
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依佐美送信所とペアを組んでいた受信所が三重県四日市にありました、地元でもあまり知られていませんが、貴重な受信所であったことなどを紹介します。
1,四日市受信所とは
明治から大正にかけて日本は諸外国との通商、外交が盛んになるにつれて、大量の情報のスピーディなやりとりが必要になりました。しかし当時の通信手段は外国所有の海底ケーブルを使わざるをえませんでした。
そのようなことから機密漏洩や妨害工作等が懸念され、また高額な通信使用料も問題となっていました。 もっと速く安く通信ができる手段として、ヨーロッパまで届く無線 通信施設の建設が考えられました。
そのため 1925
年(大正 14 年) に 日本無線電 信株式会社が 設立されました。 同社は、 1928 年(昭和 3 年 )に海蔵受信所を 翌年 3 月 に依佐美送信所を竣工さ せ、名古屋無線電信局の操縦による我が国自前の対欧無線通信ルートが確立されました。
(図1)日本無線電信株式会社四日市受信所絵ハガキ
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その後1930年(昭和
5年)に海蔵村が四日市市に編入により四日市受信所と改称、また1938 年 (昭和
13
年)に対外通信整備拡張計画にもとづき兵庫県加東郡小野町に受信所が新設されました。
これにに伴い、手狭な同受信所 は廃止され 10 年間の歴史に幕を閉じ ました。
2,四日市受信所所の相手局
1928年(昭和 3 年) 9
月、名古屋無線電信局操 縦に てベルリン、パリ、ワルシャワ各局を相 手局 として受信業務を開始し ました 。当初は片通信でしたが、
1929 年(昭和 4 年) 4 月、依佐美送信所の開局と共に相互信 が可能となりました 。 しかし、 その後短波全盛時代 に入り 当
所の長波受信は短波の補助として 1日数時間 しか稼働できませんでした。
(表-1) 四日市受信所の相手局
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3,
四日市受信所と依佐美送信所との位置関係 なぜ四日市受信所はこの地に建設されたか『国際電気通信株式会社史』(以下、『社史』という)によると次のように記されています。
「(1)欧州方向に対し依佐美送信所とおおよそ直角地点であること。」に対して(図-1)で確認すると「113度」でした。
(図-1)依佐美、四日市位置関係図 |
4,依佐美送信所の立地 四日市受信所の位置を確認するには、依佐美送信所との関係をみる必要があります。 依佐美送信所立地条件のルーツ『愛知県地誌』(昭和11年刊)」によると下記のように記されています。 「受信所の位置は対手局と送信所とを大圏をもつて連絡する線に対し、送信所より見て60度以上転位し、約30km以上離れて自局の送信電波が自局の受信を妨害することを避け得る地であることを必要としたもので、依佐美送信所と四日市受信所はこの条件を満足せしめた。」とあります。それに対して(図-1)で確認すると、約67度あり、距離は約36kmありました。
5,受信機 5,1 テレフンケン製長波受信機 テレフンケン製長波受信機
ドイツのテレフンケン会社から購入した対欧通信用長波受信機4台(受信波長範囲8,000〜25,000m、12kHz〜37.5kHz)の据付けは
同社から派遣されたCyriacy氏の指導の下に同社代理店の日本無線電信電話株式会社(現在のJRC)が当たりました。ダブルゴニオメーターアンテナ(図-2)と共に用いて指向性受信を行うもので、そのうち3台は対ベルリン、パリ、ワルソー局用として使用、残り1台を予備並びに試験用に用いました。
(写真-2)テレフォンケン社製長波受信機 |
外観は高さ2mにも及ぶ高さがありました。しかし2mに及ぶ高さは日本人の平均身長に比べて高かすぎて上方調整部分の操作に不便を感じていましたが、同時に購入したダブルゴニオメーターアンテナ(図-2)に接続して単一指向性受信を行うことができ当時世界最優秀な受信機でした。
しかし短波通信の活躍により傍流としての稼働になってしまい、わずかに冬季の短波伝搬不良時の補助機として1日数時間の使用でした。
5,2 短波受信機(マルコーニ会社製) 当初、四日市受信所にはいわゆるB型といわれた受信機が4台ありましたが対欧受信性能は良くありませんでした。しかし1929年(昭和4年)4月にマルコーニ会社から派遣されたMiller氏がデモンストレーションのために同社のUG-5型高速度印字機と共に据付け、約3カ月間対英受信を続けた結果その優秀性を確認しました。
(写真-3) マルコーニ会社製短波電信受信機
RC-24L型(正面)とRC-24V型(左側) |
そのようなことから、対英受信用設備一式にアンテナを加えて購入配備しました(C-24L型)。次に1931年(昭和6年)に改良型
RC-24Vを購入しました。最後に1934年(昭和9年)に当時のマルコーニ社の新鋭機RC-43A型を購入しました。 このように常に最新式の受信機を使うことで対英通信の安定性が保たれました。
6、受信機の内製
輸入だけに頼るのではなく国産機で賄おという機運が高まり、東京電気などと共同で研究開発が進められました。
開発は1931年(昭和6年)
に東京電気との共同研究によるA-2型短波電信受信機を製作し、四日市受信所に据付けマルコーニ機と比較試験をした結果、適切な計測器不足や製作技術の未熟などから不成功に終わりました。
しかし、この経験が後の自社製開発技術の基となりました、
7、アンテナ
四日市受信所のアンテナは大きく分けて、長波用アンテナと短波用アンテナがあり、両者とも当時最新鋭のものでした。 7,1
長波用ダブルゴニオアンテナ 1装置
1926年(昭和3年)四日市受信所に対欧用として設置したもので、局舎を中心として欧州向きに前後約2km離れた2地点(@地点、A地点)に支線式60m鉄塔各1基を建設し、各塔に直交した三角ループエレメント2箇、垂直エレメント4箇を1セットとして懸架したものを「ゴニオアンテナ」と言い、当所は2セット使用しますので「ダブルゴニオアンテナ」(図-2)と言います。
各アンテナから局舎までは6対の地下ケーブルで連絡する方式で、欧州に向けてアンテナを2セット直列に設置することにより鋭い指向性があります。このアンテナは対欧受信に短波の補助として使われ、昭和12年四日市受信所が廃止されると同時に小野受信所へ移設されました。
(図-2) 長波用ダブルゴニアアンテナ
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7、2 短波用アンテナ 短波用アンテナについては諸説あるので『国際電気通信株式会社史』に基づいて記しました。
(A)マルコニ式指向性アンテナ 1装置
このアンテナはマルコーニ会社最新の設計に係るもの で、高さ85mの鉄塔2基(図-10(A)鉄塔、(B)鉄塔)約150m隔れて建設し、この間に受信エレメント12条と反射エレメント24条とを懸架し、これによって鋭い指向性受信を行い、混信、空電及びエコー妨害を除去するのに有効でした。構造は例えば「縄のれん」を2枚重ねるようになっており、縄の部分がエレメンと考えればイメージできます(写真-4)。
(写真-4)
マルコーニ式アンテナ |
(B)水平型同調アンテナ合計 9装置
水平型同調アンテナの内、単一指向性同調アンテナが7装置、指向性を逆転出来る同調アンテナが2
装置ありました。
8,四日市受信所の跡地 受信所廃止後は社宅になりその後、分譲が開始され一帯は、松ヶ丘団地に変わりました。以降次々
と社宅が取り壊しとなり最後に9棟が取り壊わされ戸建て住宅分譲地「ウェリスパーク阿倉川」となり
四日市受信所の名残を残すものは全て無くなり、また記念碑等もありません。 所在地:三重県四日市市西阿倉川
(写真-5) ウェリスパーク阿倉川 |
9,長波用受信アンテナの跡地 長波用受信アンテナの跡地に関する調査は手がかりになる文献等が少なく難航しました。
そこで「依佐美送信所記念館ガイドボランティアの会会員」と地元「四日市研究グループ」と共同で現地調査を実施、調査検討した結果、鉄塔跡地を下図(写真-5)のように推定しました。
2本鉄塔(図-2、参照) の内 @地点(北北西)は現在「キオクシア(旧東芝メモリ)四日市工場」南側「日通駐車場」と推定、A地点(南南東)は「三ツ谷東町」の「工場地帯」と推定しました(写真-6 参照)。
受信所跡地と同様アンテナ鉄塔の名残を残すものはありません。
(写真-5)長波用受信アンテナ跡地
四日市受信所についての資料が少なく、受信機やアンテナの詳細を紹介できず残念でしたが、長波アン
テナの跡地など、新しい情報が紹介できよかったです。 |
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(参考資料)海蔵受信所ものがたり、海蔵受信所小史、国際電気通信株式会社史、依佐美送信所ガイドボランティアの会ガイドの泉第59号、60号
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