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こころの達人 鎌田茂雄著
第7章 無心に生きる 沢庵
無欲の一生
よく知られている「たくあん漬」は、沢庵が考案したといわれている。ではいったい、沢庵とはどんな人であったのだろうか。
百年にも及ぶ戦国時代が、織田信長の出現によって統一されようとしていた戦国末の激動期に、(1573年)沢庵は但馬国の出石の地に武士の子として生まれた。
乱世の禅者
天正三年(1575年)信長は越前の一向宗門徒を攻め、五年後には、その拠点である石山本願寺の諸堂は焼け落ち多くの門徒衆が殺された。その翌年(1581年)には、信長は反抗する高野山の僧千三百余人を殺し、高野山を包囲した。また、翌年には甲斐(山梨県)の恵林寺に武田氏を攻め、このとき恵林寺の快川(かいせん)は楼門の火の中で「心頭滅却すれば、火自(おのづか)ら凉し」の有名な遺愒(ゆいげ)を残して焼身自殺を遂げている。その信長も天下統一を目前にして、天正十年京都本能寺で家臣明智光秀の謀反にあい、火中に自刃して果てた。沢庵十歳、出家の年であった。
父の没落後、沢庵は七歳で寺に預けられた。出家したのは十歳のときであった。
父母と別れた沢庵の出家生活は厳しいものであった。十四歳の時自らの意思で浄土宗から禅宗の寺に変わった沢庵は、さらに厳しい禅堂の修行を修め、権力に屈しない強さと、名声や金銭に対して無欲無心に真の自由を生き抜く禅僧としての境涯を培っていった。
やがて沢庵は勅命によって、名高い京都大徳寺の住持になった。その後、徳川幕府が定めた諸宗諸本山法度に反対したため、遠く出羽国に流されることになった。三年間を出羽の雪の中で過ごした沢庵は許されて江戸に帰り、徳川三代将軍家光の再三の要請で、家光の側近くで相談役を務めることになったが、その質素な暮らし方は変わることがなかった。金銭に無欲だった沢庵は、故なき寄付は受けなかったが、納得して受けた布施は決して自分のために使うことはなく仏道を興すため寺を再興したり、民衆のために橋を架けたりに使った。
清貧の楽しみ
沢庵の一生は名誉を求めず、権力に媚びなかった。若いときから晩年にいたるまでそれは一貫していた。
沢庵は沙門の食事について、『東海夜話』上之巻の中でつぎのように言っている。
人の口に宜しきものは我口にも宣し、人の口に宣からざるものは我口にもよからず。独り美食厚味を悪み、疏食淡味を好むにあらず、唯これ我心をほしいままにすると、ほしいままにせざるとなり。沙門は卯、粥、辰、飯。この外に食ふをば仏これを畜生食と罵り給へり。まして美食厚味を好むことは放逸なり、放逸なるときは愧じあり、愧をしらざるときは則ち人にあらず、禽獣の如き乎。それ出家は士農工商の外に居て定まれる糧なし、朝城中に入りて托鉢して食ふ、専ら仏法を修行す、何の余りあってか美食を集めて活計を事とせんや。
人がおいしいものは、自分もおいしい。しかし美食をにくみ、粗食を好むというのでもない。心の欲するままにするのが、修行の妨げになる。出家は卯(おから)と粥、辰と飯以外に食べるべきではない。沢庵ははっきりと、美食を好むのは放逸であるといっている。美食は怠惰で放逸な生活につながる。それは出家者にとって愧じであり、愧じを知らないのは人間ではなく禽獣に等しい。出家者は士農工商以外のものであるから、托鉢して食べ、ひたすら仏法を修行すべきで、何で美食する必要があろうか、といっている。当時も衣食住の栄華、贅沢を望む僧が多かったので、沢庵はそれを厳しく戒めている。
沢庵の食事を戒めた壁書きが熊本の妙解院にあるといわれる。そのひとつを紹介すると、
飯は何のためにくふものか。ひだるさ止んためにくふものか。しかるにそへ物なくてめしのくはれぬといふは、みな人の僻(ひが)なり。ひだるさ止んための計略なり。役に喰ふにあらず、添物なくて飯のれぬといふは、いまだ飢えの来らざるなり。飢へ来らざれば、一生くはでもすむべし。若し飢え来るその時に及んでは、こぬかをも撰ぶべからず。況(いわん)や飯に於いてをや。何のそへ物かいらむ服薬のごとくせよ。仏の道教え給ふ。衣類またかくのごとし。衣食住の三つを以て、一生をくるしむ。われは其心ある故にこの三つのくるしみにうすし。
「飯は何のために食べるのか。空腹をなくすために食べるのか。おかずがなければ飯は食えぬというのは間違いである。食べるのは、空腹をなくすための方法で、役目として食べるのではない。おかずがなくては飯が食べられぬというのは、まだ飢えていないからである。飢えなければ、一生食べなくてもすむが、もし飢えたときには、こぬかさえも撰べるはずがない。まして飯を選ぶはずがあろうか。そんな時なんでおかずが必要であろうか。食事をとることは薬を服するようにせよと仏は教えられた。衣類もまた、食事と同じである。衣食住の三つのことで一生苦しむのが普通だが、私はこのように心がけているので、衣食住の三つのことで苦しむことが少ないのである」
1602年 沢庵三十歳のときのことであるが、南宗寺で法事があった。沢庵にも法事に出るようにとの誘いがあったが、身につけた、余りに汚れた衣が一枚しかなかった沢庵は、それを洗って、夜干しておいた。ちょうど6月は梅雨のころで、衣は少しも乾かなかった。翌朝、法要にゆく僧が迎えに来て戸をたたいたが、はだかのまま、まだ衣を乾かしていた沢庵は、後から行くからと告げて、衣の乾くまで待ったという話がある。
沢庵はいつも着たきり雀であった。沢庵に次のような言葉がある。
『名所旧跡を見ることを好む人は、目を楽しまして脚を苦しましむ。食を願う人は舌を楽しましめ心を苦しましむ。これを求むるに心を労せざれば食足らず、衣は軽きを求め、居は易きを求むる、人は、身を楽しましめば心を苦しむ、心を苦しめずして軽きを衣、安きに居ることは難し、身を楽しましめたるものは恥に近し。心を楽しましめたるものは恥に遠し』
身を楽しませれば、心を苦しめるというのが沢庵の考え方である。旅をして名所を見る人は、目は楽しむが、脚は疲れて苦しむようになる。また食通の人は舌を楽しませるが、心はもっとおいしいものを追い求めて苦しむことになる。人は安易に流れるものである。木綿の重い衣よりも、絹でできた肌に軽い衣を求め、よい住居に住みたがる。しかし身体を楽しませ、安楽にさせたり、快楽をむさぼれば、どうしても心を苦しめることになる。沢庵はこのことをよく知っていいた。衣などは一枚あればよい。洗濯したら裸で居ればよいではないかと考えていた。衣は何枚もあったほうがたしかに便利であり、楽であろう。しかし「身を楽しましめたるものは恥に近し、心を楽しましめたるものは恥に遠し」といっているように、沢庵は決して身を楽しませることを求めなかった。どこまでも心を楽しませること、つまり心の豊かさを求めた。
現代の世の中ではものの豊かさや身体の安逸と快楽をむさぼることがなんと多いことであろう。沢庵が求めた心の豊かさ、心の充実が、今こそ求められているのではないだろうか。
名声と金銭 われにおいて用なし
沢庵は布施や寄進について、平素から次のような考え方を持っていた。
又志誠ならば、一把の野菜なりとも、我為に誠を呈すと思はば、われ金玉よりも重くせん。志真ならざるときは則(すなわち)金玉といえども一毛の如し。金玉我において用無し、食は朝に一粥暮れに一粥(しゅく)にて足ることを知る。衣は紙の襖、綿衣なり、住処はその居一畳に過ぎず、衣食住の三つに煩ひ無ければ、金銀更に用無し。金銀自然にあらば、堂塔営むべく貧窮恵むべし。強いて求め得てこれを為すに足らず。
(東海夜話)
真心からであれば、たとえ一把の野菜の布施でも喜んで受けましょうというのである。一把の野菜でも真心を持って布施してくれるのであれば、それは金玉よりもありがたいものである。もし真心の無い布施であれば、どんな財宝をもらってもありがたいとは思わない、といっている。用は真心である、布施に一番大切なことは真心のあるなしであると、沢庵は平素から考えていたようである。まことの気持ちが無く、唯布施をたくさん出せば、その坊主が自分の意を迎えるというような考え方の人に対しては、沢庵はこれを峻厳に拒否した。「金玉我において用無し」と喝破した沢庵の言葉に、禅者の真の姿を見ることができる。沢庵自身の生活は大変質素であった。食事は朝一椀の粥、夜一椀の粥で十分であり、着るものは綿、住まいは畳一畳でよいといっている。なぜ畳一畳なのか、それは禅の修業をする禅堂での一人の修行僧が畳一畳の中で生活をする伝統を踏まえているからである。われわれは衣食住のことだけを思い患い、衣食住のために汗水流して働いているが、沢庵は衣食住の三つに心を煩わされることがなければ、金銀などは特別に必要は無いといっている。この沢庵の心情をみると、禅宗の僧侶として徹底して簡素で質素な生活に徹していたのがわかる。
1634年三代将軍徳川家光に拝謁。翌年板倉重宗から江戸の出るようにとの手紙が届いたが、「自分はとても世の中に出られる身ではない。山林樹下の者が、官界などに出入りすることはできません」と断った。沢庵は「栄華冨貴を好んで人にへつらったり、仏法を売りものにして渡世の営みをしたりするのは、仏祖の道を泥土の中に堕すことです。樹下石上の閑居を選んだ人は、決して楽しみを求めるために山に入ったのではありません。仏の道を行うために山に入ったのです」と言っている。「樹下石上の閑居」とは、山野や路傍に野宿して行雲流水の行脚をする禅僧の境涯をいったものだが、沢庵はそのように自分は生きたい、仏法を売り物にしたり、権門冨貴に媚びへつらうことはもっとも唾棄すべきことと考えていたので、家光に招かれることは権門にへつらうことと考えていたのであろう。
しかし板倉重宗から再三返事を促され、さらに老中の連署状が届けられるに及び、沢庵は遂に江戸に下る決心をした。しかし心底は気もすすまず迷惑であり、このままそっとしておいてほしかったにちがいない。沢庵の気持ちとは逆に、周りの情勢がそれを許さぬかたちになり、寛永十三年(1636年)江戸に下向、家光に拝謁し、柳生宗矩の別邸で暮らすことになった。以後、沢庵は家光の厚い信頼と待遇を受けた。しかし沢庵は決してこれを喜んだわけではなく、むしろ当惑していたにちがいない。なぜなら、沢庵は平素から次のように考えていたからである。
高麗唐土(こまもろこし)の珍器異具、願ひ求めてこれを愛する人は尤も人の常なり。吾是に望みなし。吾人間に心無く、貴介公子と交はり、花の下月の前に会席を設け茶香の遊びによって日を過ごさんと思ふ心なし。一間の茅屋に紙襖を綴り、一領の綿衣を身に纏ひ、僧形を破らざるのしるしを表して、生を送り死を待つの外あるましきと思へばなり。(東海夜話)
沢庵には茶器を見る眼がなかったのではなく、そういうことに一切の執着が無かったのである。貴族と交わり、花鳥風月の宴席に出て、茶や香の遊びに日を過ごしたいと思う心もなかった。沢庵の願いは、小さな草庵に、静かに禅僧らしく暮らしたかったにちがいない。
寛永十六年、家光は万松東海寺(品川)を建立し、沢庵は開祖として迎えられた。
あまりに家光に信任された沢庵に対し、権力や富貴におもねっているのではないかという疑いを持つものが現れた。しかし、沢庵には名誉欲はなかった。普通、人は何としても名誉が欲しい、名声を得たいと努力するが、沢庵にはまったくそういうことは無かった。
夢のまた夢 ひとり生きひとり死す
沢庵がその波乱の生涯を閉じたのは1645年である。死の直前沢庵は「夢」の一字を大書し、筆を投げて入寂したといわれる。七十三歳の生涯を「夢」の一字に置き換えて、辞世の挨拶とした。心に何も止めることなく、玲瓏(れいろう)透徹なこと鏡のごとく、生涯無欲恬淡(てんたん)と生きたのが沢庵であった。地位や名誉に一切執着することなく、ただ自然の理と世俗の要請に従って、その中で自由自在に生きた沢庵。人生を夢のまた夢と見極めた沢庵にとって、世間一切の営みは虚飾であった。その中で真実に生きる道とは唯一つ、仏道を歩むことであった。出家者として人にへつらわず、一生を一修行僧として、ただひたすらに仏道を歩んだ、その沢庵の死に対する考え方を最もよく表しているのが遺戒である。
遺戒「老僧遺戒之条条」は漢文で書かれ、十六条ある。この遺戒を簡単にしたものが『万松祖録』にある。
全身を後ろの山にうずめて、唯土を覆うて去れ。経を読むことなかれ。斎を設くることなかれ。道俗の弔ふ(喪主への贈り物)を受くることなかれ、衆僧、衣を着、飯を喫し、平日のごとくせよ。塔を建て、像を安置する事なかれ。諡号を求むる事なかれ、木牌を本山祖堂に納むる事なかれ。年譜行状を作る事なかれ。
これらの遺戒の一条一条を読んでゆくとき、孤絶の七十三年の道をひたすら歩んだ沢庵の生の声が惻々と聞こえてくる思いがする。一人で仏道を峻厳に求め抜いた沢庵は、自分には法を嗣ぐ弟子はいないと断言している。真の宗教者は本来そういうものではないだろうか。ほんとうに一筋の道を歩むものはあくまで独りであり、弧絶の道を歩む者である。自分が死んでも弔問を受ける喪主はいない。受ける喪主がいないので葬式も弔問も一切必要ないのだと。この沢庵のすさまじいばかりの遺戒の激しさ、潔癖さは純粋に生きた人の最後を飾る透徹した言葉である。沢庵にとっては葬式もまた虚飾の一つにすぎなかった。俗人の世界だけが偽りの世界ではなく、自分が身を置いた僧侶の世界もまた虚飾に満ちた世界であることを知っていた。その中で真実の人生とは何かということが、沢庵が生涯かかって求め抜いた道であった。
色即是空、空即是色、柳は緑、花は紅(くれない)
また沢庵は、自分の死後、紫衣や画像を掛けてはいけないといっている。自分の肖像画などは一切要らない。ただ一円相をその代わりにすればよいと。沢庵の一円相は、現在も品川の東海寺に所蔵されており、開山忌に祀られているという。
自分が息を引きとったなら夜のうちに野辺の送りをして東海寺の裏山に遺体を埋めてくれ、昼間運んではいけない。夜送り出すときも誰も知らないうちに二、三人だけで運んでくれと、侍僧に頼んでいる。自分の身は裏山にでも埋めてくれればよいので墓などは一切要らない。また東海寺の祖師堂に自分の位牌を祀ることは絶対にいけない。さらに年忌は一切行わないことも遺言している。
こういう考え方がどうして生まれたのであろうか。沢庵は生涯全力を尽くして、仏法を生き抜いてきた。虚飾を排し、真実の道を求め続けて生きた沢庵は、生きることと同じレベルで死も見極めながら生きた七十三歳の生涯であった。
沢庵のような生き方を理解する一端として、われわれもまた、死を見極めて生きることが大切である。
生きているときに、人間の死というものをしっかり見つめる時、生きていることの事実の重みが分かるものである。現代のわれわれが沢庵の生き方をそのまままねることはできないが、その覚悟というものは、学ばなければならないと思う。