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釈迦の説いた教えでは仏像がなかったのである。 原始仏教には、仏像はなかった。 (後に釈迦を慈悲の仏として超人化しその仏像を崇拝するようになる。仏教の宗教化である)。 死。死の違いほど、キリストと釈迦との違いを示すものはない。自然に死んだ釈迦と殺されたキリスト。釈迦の死が自然死であるのに対し、キリストの死は殺人であった。殺人に対して、人は復讐せねばならない。ヨーロッパ文化圏では、どうして殺された人間ばかりを聖者とするのか。そこにあるのは、正義という根本思想である。正義のために復讐しようとする論理である。したがってそこには憎悪や怒りが存在し、人間を激しい行動に駆りたてる。それに対して、釈迦の語るのはただ慈悲である。ここでは行動は外より内に向く。正義の文化と慈悲の文化の違いである。 このようなヨーロッパ的正義に支配されている現代であるが、その西洋文明の限界が見えてきた今、再び慈悲の思想が忘却の中から現れて、世界の指導原理となる日が来るのではないか。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 内向的な日本人の性格の原因は、よく言えば慈悲の精神の影響かもしれない。(このように、梅原猛の魅力のひとつは、たとえ古いことを語る時でも、常に現代に目を向けて解釈するところであると思う。)
比叡山延暦寺の根本中堂の本尊として坐(いま)す薬師様。(左手に薬のビンをもっている)
浄土教 阿弥陀の姿は、摂取不捨の慈悲の姿。
真言密教の本尊である大日如来(摩訶毘盧遮那仏 まかびるしゃなぶつ) 大日如来の前身は毘盧遮那仏である。(東大寺の大仏) 曼荼羅(まんだら)は仏の集まりを示すとともに悟りの本質を示すものであろう。曼荼羅の中心にいる大日如来。一切の仏を統べる仏。 われわれ日本人は、古来から自然の中に、生ける神の姿を見る民族であった。神仏習合という神と仏を結びつけるものが、自然に生命を見る思想であることに注意する必要があろう。
空也上人(900年頃)『西院河原地蔵和讃(さいのかわらじぞうわさん)』 観音菩薩は多くの現世利益を目的としているのに対して、地蔵菩薩も同じ現世利益をといてはいるが、さらに過去に死去した人の罪障を救済し、解脱へと導く菩薩として信仰される。
弥勒は五十六億七千万年の未来にこの世に出現して、釈迦によって救済されなかった衆生を救済する仏なのである。 (西洋哲学者であった梅原猛は、さすがに西洋と東洋の比較において感心する。) 弥勒はあくまでも思惟の仏。イエスは最後の審判のために雲に乗って現れる。地上の悪を退治して、地上に天国を実現する神なのである。(ヨハネの黙示録)私は「黙示録」を読むごとに、このような正義の名による復讐的な大量殺人の後に来る神ノ国がどんなに栄光に満ちていても、そこのはなまぐさい血のにおいがしないかという疑問につかれるのである。表面では無条件に人を愛するに似て、心のそこでは復讐の心がめらめらと燃えるような真理をパウロは認めようとするのであろうか。すばらしい愛の教えと、復讐の話とはどのように調和するのか。私はこのへんに、西洋文明の不思議な精神的性格と同時に攻撃的性格があるように思うがどうであろうか。
今までわれわれは、如来と菩薩の像を見てきた。如来はすっかり仏になった仏様、菩薩はこれから仏になろうとする仏様、いずれも慈悲に満ちた微笑のお顔である。しかし明王はまったく違う。それは怒った顔なのである。激しい怒りなのである。明らかに明王は、バラモン教の産物である。怒りは生のままの人生の衝動である。わらわれはそれを理性によって飼いならしている。なぜならその衝動は、いつ何時理性の束縛を破って暴れだし、われわれを破滅の淵に沈ませるか分からぬからである。そして人がこのような衝動を飼いならし、己を危険でない人間とすることにより、生そのものが貧弱になってしまった。もう一度あのあらあらしい衝動の力を現代人は取り戻すべきではないか、とニーチェはいう。 不動明王像は日本でもっとも豊かに展開した仏像である。 われわれが不動の中に直感的に見るのは、一つの力であり、衝動である。しかし、経典はいささか違った説明を不動に与えているのである。不動の怒りは決して敵に向けられたものではない。それはむしろ己の煩悩に向けられたものである。不動の持っている剣で切るのは憎むべき敵ではなく、己の欲望であり、索で縛るのは他人ではなくして己の心なのであり、炎々と燃える火炎も、身を焼く衝動の炎ではなく煩悩を焼き尽くす炎なのである。不動の怒りは、外より内に、他人より自己に向かっている。それゆえ不動の力は人に勝つためのものでなく、己に勝つためのものである。
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