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仏像の心より 禅は一切の偶像を否定する。わが心が仏である。心以外に仏はない。 一切の偶像を否定する禅が、なぜ達磨の画を大切にするのか。達磨の画は仏像として崇拝の対象としてそこのあるのではない。それは心の比喩としてあるのである。曰く言いがたい禅の心の比喩、象徴として禅僧の描いたのが達磨の画である。 禅の心は言いがたい。悟りは忽然として人を襲い、人を恍惚たる自由の境地に置くのである。それはただ一陣の風のように訪れる。 このような曰く言いがたい禅の心を、比喩により、象徴によって表現しようとしたところに、「達磨図」があり「十牛図」があり、茶室、石庭などの禅芸術があった。 現代文化に疲れた人間たちは、あの一切の分別を超えたかにみえる禅の世界に、現代の機械文明の重荷を切り捨てる妙薬を見つけるかもしれない。 『六祖壇経』 祖師達磨より数えて第六祖の慧能(700年)の説法集 禅は、六祖慧能において、一つの大きな変化をこうむる。そして、のちの禅者は、すべてこの慧能の系統をひくものとされる。
天台止観の「十界図」と禅の「十牛図」の比較 平安仏教 天台の教え「摩訶止観」 一念三千の世界。 わたしは、これはすばらしい思想であると思う。 天台の「十界図」は苦の段階に応じて世界が分けられる。 禅の「十牛図」は心の自由度を世界の区別とする。 人間の求めるものが楽なのか、それとも自由なのか、もとより一概に断定できない。インテリの求めるものは、自由であろう。しかし多くの人間の求めているものは、自由よりは楽ではないか。なぜなら多くの人間にとって、生活は決して楽なものではなく、苦なるものであろうから。苦が生活の実態である、楽こそ人の求めるものであるならば、天台のほうが禅より深い人間の実相をえぐっているともいえる。 天台の一念三千の止観は、世界は万華鏡のように多彩な輝きを持っている、一瞬の間に三千の世界が宿っている。その一瞬に見るものはあふれんばかりの生の豊かさである。地獄の絶叫から、人間の無常から、天のよろこびから、仏の悟りまで、一瞬に無限に拡がる世界が宿るとするのである。しかし禅がいたるところに見るのは、むしろ世界の差別ではなくして、同一である。それは一瞬に絢爛たる三千世界を見るというより、たえずあらゆる世界に同一の無を見るのである。禅はこの世に実在する絢爛(けんらん)にして多彩な生の現象に目を閉じているといえるかもしれない。禅画はすべて墨一色である。墨の中に無限に変化する色があるといわれる。たしかにそのとおりであり、われわれが禅画の中に見るのは、五彩の墨である。しかしどうして、色をもちいてはならないのか、世界はこんなに絢爛たる色に満ちているのに、色の世界から目を閉じるのは、世界に対する一つの冒涜ではないか。 私はいささか、禅に対して判定がきびしかったかもしれない。 鈴木大拙氏の仕事の意味は大きい。それは仏教の中の一つの宗派である禅の精神を世界に示すのに役立った。しかし、あまりに大きな仕事が、かえって他の仏教を見えなくしてしまった。この他の仏教を見出し、それと日本文化の関係を考えることが必要である。 (この「他の仏教」とは主に平安仏教のことを言っているのであろう。鈴木大拙の平安仏教を軽く扱った事に対する梅原猛の批判である。空海を高く評価する梅原猛ならこそである。) |
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