スクリアービン入門講座 by K.Hasida その6:
後期ピアノ作品 各論(その1)
要するにルディのCD1枚半(CAL 9687/9692)に入っている
作品62以降のピアノ曲です。
1回で終わると淋しいから、総論など立てたのですが、書くうちにかなりの
量になったので、各論も2回に分けて、今回はソナタ8番までです。ルディが
LPで出た時の1枚目になります。
このルディを聴けばスクリアービン後期の姿が見えてくると思って半分以上
正しいと考えております。従って、以下の文章に推薦CD紹介としての価値は
殆ど有りません。ルディのCDを購入してめげそうになった時に、このCDの
解説(仏英)は貧弱で役に立たないでしょう。前回の後期ピアノ作品/総論で
書いたように、スクリアービンに対する資料はなかなか見つかりません。そこで
熱狂的なファンとしての独断であっても、多少ともスクリアービン後期に近付く
ヒントになるのではないか、と僭越ながら考えております。
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ピアノソナタ第6番作品62
スクリアービンが、まるで怪談を聞かされた幼子のように恐れて、決して
自分で弾こうとしなかった、というこの曲の美しさを、どう表現すればよいの
でしょう。作曲家自身に低く評価される曲、嫌われる曲は、まま有るようで、
凡人にもそういう事態は想像できます。しかしスクリアービンがこの曲を、
薄汚れた不吉なものとして恐れた、とは書かれていても、嫌った、とは書かれて
いないのです。
スクリアービンが自分のやりたいことをやり通したのは、自分自身では演奏
しようとしなかったという、ソナタ6、8、9番ではないか、と私は想像して
います。誇大妄想のきらいのあるのは疑いも無いスクリアービンですが、一方
でその誇大妄想を超えるほどの天才なればこそ、当初計画から大きくはみ出す
響きを作ってしまい、その結果におののく、という凡人には想像し難いことも
起るのでしょう(か?)。
落ち着いてこの曲を見れば、第10ソナタについで大人しいソナタ形式で
書かれています。しかし初めて聞いた印象での形式感は、普通のソナタ形式
から受けるそれとはかなり異なると思います。このあたり全てこの曲の顔
ともいうべき、第2主題の変容に負っています。
この曲は激しい曲ではありません。第1主題、第2主題とも、半音のうごめき
を中心に作られています。第1主題ははっきりした顔をして提示されますが、
第2主題は提示される時は、そうっと目立たずに現れます。初めて聴いて、
主題と認識できなくて当たり前です。この時点で形式感はソナタ形式のそれ
ではなくなります。
この第2主題が展開部で現れるところ、これは展開とは言い難い。むしろ再現
部に向かっての中間段階です。初めて聴かれた方なら、ここで初めて主題と認識
出来るものが姿を表したというべきかもしれません。特にルディのように第2
主題に光が当った演奏だと、この曲は第2主題の進化をたどる曲となり、ソナタ
形式の枠組みは希薄となります。
そして再現部において、この主題は最も幸せな時を迎えます。私にとっては、
スクリアービンの全作品中で最も幸せな時でもあります。また作曲者にとっては
これが一番恐ろしい時だったのでしょう。分散和音のうごめきの上、まるで
万華鏡の中の色片が次々と新しい形を作るように半音上昇がキラキラと明滅し、
その中を第2主題がゆっくりと上がっていく... 展開部やコーダで高揚する
局面もありますが、この曲の中心はここにあります。
後期ピアノ作品については、全てについてルディを第1に推薦しても間違い
ではないと考えていますが、特にこの曲は、この曲の第2主題の再現部分は、
ルディで聞いていただかないと話になりません。この演奏の全てを気に入って
いるというわけではなく、例えば、出だしの第1主題提示はシドンくらいに
そっと入ってくれた方が好きだ、とかありますが、そんなのはもうどうでも
いいのです。全ての曲に対して、ルディは浮ついたところのない、くっきり
した重心の下がった演奏に終始していますが、その特徴を最大限に発揮した
のがこの曲の第2主題の再現部分で、息をのむような世界を聞かせてくれます。
勿論他の演奏にもいいところはあります。リヒテル(作品42の紹介の時に
触れたCD、ビクターVICC−2122)、ジューコフ(LP)といった、
旧ソ連の演奏家のものには、第2主題の再現を単なる再現以上のものとした、
ルディにつながるような表現が聞けます。リヒテルのライブは一番肝心な所で
咳払いを浴びせかける客が残念です。ジューコフのはペキペキいう変な音です
が、ピアノの音のニュアンスは割と撮れている、決して悪くはないものです。
わざわざ今からLPを探すほどの事はないでしょうが。
私が初めて聞いたのが、シドンです。全集の入手は最近ですが、著作権侵害の
ダビングテープで2、6、7、8を聞いていました。1番は数に入れないとして
当時入手が困難だった曲を知人に入れてもらったのです。
ソナタ形式を一番はっきり感じさせてくれる演奏です。ルディとくらべて、
ぼかした音でそれなりに雰囲気も出ています。第2主題の扱い以外では、私は
こちらの方が好きかもしれない。第2主題でも頑張っていますが、シドンの
テクニックでは、くっきりと聞かせるのは無理だったでしょう。
以上はルディに至る演奏史を辿る時に重要な記録だと思います。2枚目以降の
CDを買う場合の候補にして下さい。
なお、ホロビッツが演奏会で弾いた記録が有るそうなので、もしかして録音が
ひょっこり出てこないかな、と期待しています。
ルディ以前の録音がルディの境地に達していないのは理解できるとして、
アシュケナージのは何なのでしょうかね。3回に分けて録音された全集の最後の
もので、彼のでは一番良い部類ですが、曲に対するスタンスがないというか..
結局弾ききるテクニックがないのかなと思ってしまいました。
自分では譜読みすら果たせなかった曲ですから、難しさの程度を論ずるのは
僭越なのですが、第2主題再現をルディのような遅いテンポでしっかりくっきり
弾ききるのは、それだけでただものではないといえます。余程しっかりした手で
ないと無理で、プロでも実はおいそれとまね出来ない可能性は有ります。5番の
第1主題を弾いて一応自己満足するより、はるかに難しいのは間違いない。
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ピアノソナタ第7番作品64”白ミサ”
この曲は好みません。シドンで初めて聞いた時のテープも、ルディのLPも、
これらのCDも全て6番に引続いてこの曲が出てくるので、聞いた回数は大差
ない、すなわち膨大なのですが、左耳から入って右耳から出ていくという感じは
改善されません。冒頭の第1主題、終わり間近のアルペジオに代表される、
思わせ振りなところはやっぱり嫌いです。ところがスクリアービンはこの曲を
しばしば弾いたのだそうで。”白ミサ”は作曲者の命名です。
私には天才スクリアービンではなく誇大妄想狂スクリアービンが愛した曲に
思えます。第1主題前半の特徴有るリズムと後半の高速アルペジオ、これらの
動機で全曲を組み立てきっていたら、思わせ振りなどとは言わないと思うの
ですが、こうしたものが全曲の流れから完全に浮き上がっています。他の部分
はむしろ6番に似たトーンに沈みます。誇大妄想狂スクリアービンが特徴有る
これらの動機にミサとしての意味を持たせて喜んだのかも知れませんが、6番
に見られた、緻密さは感じられません。逆にこの曲から緻密さを感じる人は
そのままこの曲が好きで、従って私の感想をばかばかしいものと感じるかも
知れません。
私の別の知人にこの曲が好きなのがいて、”第6ソナタは第5と第7との中間
に思える。”と、私には理解できないことを言っていました。作曲時期は6番と
ほぼ完全に重なっていて、完成はこちらの方がわずかに早かったのですが。
この知人というのはこの曲を演奏会で立派に、少なくとも同じ演奏会での私の
9番よりは遥かに立派に、弾いてしまったくらいの十分信頼するに足る男です。
私自身はこの曲を弾こうとしたことはありませんが、おそらく6,8と同じく
私には到底弾けない曲だと想像しています。
私の駄文にフォローを寄せて下さる方々の中にもこの曲の擁護をして下さる方
がおられれば、その御意見も参考にして下さい。
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3つの練習曲作品65
前回ドビュッシーファンへの挑発を試みたつもりだったのですが、どなたにも
乗って戴けませんでした。ドビュッシーのエチュードと、どちらが早く構想作曲
されたのでしょう。
例えドビュッシーの、3度のために、4度のために・・・の方が、アイディア
段階で早かったとしても、スクリアービンの9度のための第1曲と、7度のため
の第2曲の過激な美しさは独自のものです。第1曲については、聴いた最初は
やりすぎかな、と思いましたが、慣れれば第2曲に劣らず美しい。勿論一番無難
な5度の第3曲も美しい。
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ピアノソナタ第8番作品66
またまた別の非常に物知りの以前の知人が10年程前に、”過去10年位の
音楽の友誌を見る限り、この曲が演奏された形跡はなく、日本初演されているか
どうか、極めて疑わしい”と言っていました。その後どうなっているのでしょう。
その知人の話では、6番でもアシュケナージが弾く前に何度か音楽の友に載って
いて、その他の曲はかなり演奏されているという話でした。後期ソナタ中一番
長くて一番地味な曲です。
最近この曲がとっても好きです。最初シドンで6、7、8番を聴いた時には
この曲が一番好きでした。ルディのLPを買って6番に驚嘆しましたが、その時
にはルディの8番には馴染めず、もっぱらシドンで聴いていました。この曲を
ルディのくっきり、で聴くのに慣れたのが最近で、それと共に曲の評価も最上位
級に上がりました。
最後の3曲のソナタもまた殆ど同時に作曲され、完成順では9、10、8の順
になります。即ちスクリアービンが最後に完成したソナタはこの曲なのです。
この3曲も全てソナタ形式ですが、それぞれ思いきり異なったソナタ形式と
なっています。あたかもスクリアービンがソナタ形式で出来ることを追及し
尽くしたように。なかでも一番不思議なソナタ形式をとったのがこの曲です。
その気になって楽譜を見れば、導入、提示部、展開部、再現部、コーダを指摘
できますが、実際に現れるのは淡々とした主題の交代と変容です。ソナタ形式
を聞き取るのは容易ではなく、無理にそんなことしても面白くない。覚えて
しまえば判るようになりますから、当分は流れにまかせて薄暗がりを冒険
しましょう。
この曲もあまり激しくない曲です。大きな頂点は有りません。しかし6番より
基調とするテンポは速く、生き生きとした動きがあります。沈み込んでいく6番
に対して、薄暗がりの中の冒険、という感じを受けます。聴きどころという場所
は無く、むしろ全曲が聴きどころです。慎ましやかな導入、ドビュッシーの4度
のための練習曲を思い出してしまう第1主題、トリルが重要な要素となっている
第2主題群が交代しつつ進行します。トリルは後期の曲には頻出し、中でも、
”トリルソナタ”は第10ソナタの愛称になってますが、私には8番に出てくる
眠りを覚ますかのような不協音程の2重のトリルが一番印象的です。
スクリアービンはこの曲も弾かなかったらしいですが、6番とは違って友人に
この曲を擁護する手紙を書いています。”あなたはこの曲に対位法がないと言う
が...”と。
私にはこの曲は誰のを聴いてもいい演奏に聞こえます。この薄ぼんやりした、
よくわからないけど凄い曲を、ルディのくっきりした音で案内してもらうことが
最近は多いですが、シドンのぼかした音で薄暗がりにそのまま入ってしまうのも
いい。今までけなしたアシュケナージもこの曲が全集中のベストでしょう。
ソフロニツキもジューコフも録音はともかく、なかなかいい。
私の場合はシドンを先に聴いて、その後長い間ルディに馴染みにくかったの
ですが、逆順に聴くとどうなるのでしょうか。
この曲を弾く際の難しさは、その長さにつきます。楽譜で見るとこれが半端
ではない長さなのです。絶対に弾けないところが有る訳ではなさそうなのですが、
この長い、淡々とした曲を前にして気力の維持をするのは、アマチュアにとって
大変どころではありません。
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スクリアービンの後期でも、演奏機会の少ない3曲のソナタです。次回(いつ
出せるのだろう)紹介する9、10番から先に馴染んだ方がいいのかどうか、
今となっては私には判りません。