スクリアービン入門講座 by K.Hasida その5:
後期ピアノ作品 総論
要するにルディのCDに入っている作品62以降のピアノ曲です。LPなら
2枚、CDで1枚半ですから、倉田さんのベルリオーズ入門のペースなら文句
無く1回で終わるはずの量なんですが、2回に分けて引っ張ります。
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今頃になって自分の好みを披露するのも変ですが、スクリアービンの大規模
作品を私の好きな順に並べますと、その日の気分でも変りますが、大体
第1群:ピアノソナタ6、8、10番
第2群:ピアノソナタ4、9番、法悦の詩
第3群:ピアノソナタ3、5番、幻想曲
という順になります。というわけで、私にとってのスクリアービンは半分以上
この領域なのです。聴く方でも、この身の程知らずの入門講座を始めるまでは
スクリアービンでは半分以上この範囲で聴いていましたし、ソナタ10番は
我が半生最大の愛想曲となっています。逆にソナタ6、8番については自分で
どうにも弾けなかったから憧れが強くて評価を上げすぎたかもしれません。
ということで、ついでに弾いてみたことのある曲を紹介してしまいますと、
プログラムに載せて弾いたことがある:
ソナタ4、9、10番、詩曲Op32−1、炎に向かって、
とにかく自分で最後まで譜面を音にした(つもり):
ソナタ2、3、5番、幻想曲、他小品を少々(余り多くない)
弾きたかったが譜読みの時点で挫折:
ソナタ6、8番、
まるで弾く気がしない:
ソナタ1、7(ここに置いたことに注目してくれます?)番
となります。
というわけで、最後の5曲のソナタ(マイナス1)を十把ひとからげに
通り過ぎる訳にはいかないのですが、しかし無調のソナタ形式単一楽章、
と5回紹介しても仕方ありませんから、総論らしきもので1回引っ張って
みようと考えたのでした。世にも長い前置きだ。
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1.スクリアービン後期の作曲技法について
法悦の詩のところで神秘和音についてちょっと書いたら細谷さんから早速
丁寧なフォローをいただいてしまいました。評論家により解釈が違うという
こともかかれていましたが、そもそもスクリアービンについて書かれたもの
が町の本屋には殆ど無いのです。それでCDの解説を読みますと、無責任と
言いますか、スクリアービンに情熱を傾けてはいる人の文章ではないな、と
感じてしまうようなものが多いように思います。
そこでスクリアービンの作曲技法について、しばしば出てくるキーワードに
対する私の感想を述べさせていただきます。
その1 神秘和音:
スクリアービンの後期をこの言葉と、せいぜい無調だけで片付けようと
しているとしたら、その解説は読むに値しません。大体、和音がボーと
鳴るのはプロメテが最後でしょう。
その2 属9の変化和音:
春秋社のソナタ全集(楽譜ですよ)の前書き解説に”単一の属9の和音
で埋めつくしている”という意味の事があります。
#日本の出版社がスクリアービンを出し始める前からMCA(これが一番
#安かった)のを買ったから、春秋社のは手元にないのだ!
丁寧に書いてあるのですが、問題はこの音大生御用達出版社のレベルに私
が追い付けないところにあります。トニカが不明で”属”とは? 無調に
至る途中経過でなら解る様な気はしますが.. ただし、機能和声から逸脱
しているかどうかはともかく、中期スクリアービンには和音の進行と言える
ものがありましたが、後期では和音の進行は作曲の指針になっていなかった
のでは ないか、と私には思えます。
それでも神秘和音よりはアカデミックな香りがする分だけでもいいですね。
その3 移調の限られた旋法
メシアンが整理した上で命名したとかいう、この言葉を初めて見たのが
ルディのLPの解説、但しその時は調べもせず、初めて言わんとすることを
知ったのが、誰か忘れましたが日本の女流によるCDで、浅田彰氏が一筆
書いていた奴の解説、前述の春秋社の楽譜の解説にも説明があります。
こちらは属9よりは解りやすい。
極端な事を言いますと、半音階は、どの音から始めても同じものしか
出来ませんから、移調が全く出来ない旋法ということになるのです。全音音階
は1回だけ出来ますし、それに対し長音階短音階は12回出来る訳です。
移調の限られた旋法の方が、長音階や短音階よりも対称性が強く、音の役割が
より均等になりやすい、即ち無調に向かうわけです。
#こういう言葉をCDの解説でいきなり持出すのは解説者の役割放棄とは
#思いませんか?
春秋社の解説にもありますが、スクリアービン自身が対称性を意識して
この音階を選んだと言うより、無調を志向した結果、偶々こうなったように
思えます。というわけで、これがスクリアービンを
motivate したものとは
私には思えないのです。音楽史を遡ってみるには重要なスタンスでしょう。
と、解説文で見掛けるキーワードはどれも気に入りません。
私の実感その1: 複数のごく短い動機による徹底的に対位法的な組み立て
が、スクリアービンの後期における作曲の仕方だと思っています。
ヴィニャルの”マーラー”にマーラーの第6交響曲4楽章のやや詳しい
解説があって、導入の諸動機がどう組み直されて(パズルみたいだ)第1
から第3主題までが作られているか書いてありました。
スクリアービンの後期ではこれと異なり、動機は動機のままで示され、
メロディ=長い歌を全く形成しません。そのかわり両手の音形の隅々まで
行き渡り全曲を形成します。ピアノソナタでも交響曲でも第4番からこの
傾向が出てきます。その動機をさらに短くして、全曲の隅々まで行き渡ら
せた結果、自然に対称性の高い旋法に行き着いたのがスクリアービンの後期
ではないかな、と一人で思ってます。独自の和音と言われるものはさらに
その結果出来たもの、としか見えません。この動機はそれぞれ極端に短い
ものが使われますから、明らかに12音音楽とは異なるわけです。短い動機
ですが、堆積して長い長い呼吸を始めると、第6ソナタや第10ソナタの
第2主題再現のように驚異的世界を開いていきます。
私の独断に興味を持たれて、読譜力にも自信があるのであれば、第9
ソナタの詳細な分析をお勧めします。これが後期のソナタの中では一番
読みやすいのですが、それでもただものではありません。
私の実感その2 : ソナタ形式の追及
音楽の作り方の単なる選択肢の一つではないかと思うのですが、なぜか
ソナタ形式しかありません。これあんまりうまく説明できないのですが、
スクリアービンのソナタ形式感は誰よりもベートーベンに近いと感じます。
この件、ニュースの肴にして下されば幸いです。
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2.スクリアービンの音楽史に置ける位置付け
これは私が教えていただきたいのです。確か、スクリアービンと
シェーンベルクとドビュッシーがほぼ同時に無調音楽に突入していったことに
なっていましたよね? この3者はお互いをどう認識していたのでしょう。
スクリアービンが、音楽とはスクリアービンの音楽である、とうそぶいていた
のは想像に難くないとして、同世代といってもよいドビュッシーは
スクリアービンをどう見ていたのでしょう。
私がピアノを触る人間としては例外的にドビュッシーに対する関心が低く、
余り知らないので(でも重要ピアノ作品の録音は大体持っていますから、
ドイツの交響曲を本拠にしている人の平均よりは物知りになるのかな)、
お教えいただけたら、と存じます。
作曲者自身の指揮によるマーラーの復活(だったと思う)の演奏の途中で
これ見よがしに席を立ったドビュッシー
イベリアを激賞したけれど実はアルベニスには嫌われていたドビュッシー
火の鳥、ペトルーシュカを激賞して、春の祭典に当惑したドビュッシー
というのは、全てマーラー、アルベニス、ストラビンスキーについて書かれた
もので見つけたドビュッシー像です。あんまり芳しくないものばかりですが、
さて、スクリアービンは?
スクリアービンの作品65、66にはドビュッシーの練習曲集を想像させる
ものがありますが、一方が他方に影響を与えた形跡は?