スクリアービン入門講座 by K.Hasida その4

中期作品(2)からプロメテまで

今回は前回以上に私が良く知らないゾーンとなります。作品50から60の
範囲で、ピアノソナタ第5番、法悦の詩(英語なら ザ ポエム オブ
エ・ク・ス・タ・シ・ー だよ。知ってた?)−交響曲第4番とも言う、
プロメテウス−火の詩−交響曲第5番とも言う、だけ紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ピアノソナタ第5番作品53

     神秘の力よ! 私は今、お前を呼びおこそう。
     創造的精神のうす暗い底に沈む
     生命のおびえた影よ。
     私はお前に、勇気を授けよう

 というたわごとが冒頭にかいてあります(平井丈二郎訳)。これは法悦の詩に
つけた詩の中の4行だそうです。

 この曲がスクリアービンのソナタで一番有名であるらしい。作曲者も一番よく
弾いたそうです。で、私めの評価は好きだけど大好きまでは行きません。
 凄いところは文句無く凄いのだけれど、弱いところがある、さらに言えば、
余りの凄さがそのまま弱さにつながってしまっているところがあると感じて
います。このあたり見解の別れるところでしょう。

 この曲以降スクリアービンの大作(といっても20分程度以下)は全てソナタ
形式の単一楽章となります。和声的には4番よりもさらに進んだ所まで行って
いて、機能和声からは逸脱しています。これは冒頭のようにいかにも調性感の
無いところも、第1主題のようになんとなく調性が感じられるような気がする
ところもしかり、です(と思うんだけれど詳しい人にはいい加減なこと言うな
とやられるかもしれない)。

 冒頭のトリル、これは響きの爆発であり、調性が無いからと言って構える必要
は全然有りません。つづいてゆったりとした神秘的にけだるい変拍子の部分、
ここまでが後に続くものを期待させる十分に素晴らしい序奏です。

 プレストの第1主題提示、この次々にさく裂する和音の連続はスクリアービン
の書いた最も幸せなひとときの一つです。ただし提示部でここまで輝かしくもり
あげてしまったがために展開部で困ったようにも思えます。続く部分を第2主題
とするのもありますが、テンポを落とすまでは推移と見るのが普通でしょう。

 ここまでには一言の文句も無い。で、メノヴィーヴォでテンポを落として第2
主題が出ます。この主題こそスクリアービンの真髄を示すものである、とする人
もいるようですが、私にはこの主題、だるい。

 第1主題の材料を使った終止(プレスト)で提示部が終わり、展開部はまず
序奏を提示部に近い形で示します。それから提示部と同じく第1主題(ただし
推移主題がからまる)が現れますが、ここに問題が多い。まず、序奏のけだるい
部分からテンポ指示なしでつながっていて扱いに困る。推移主題がからまって
いて提示部の推進力は望むべくも無く、それでも元はプレストの主題だという
事で心持ちテンポを上げて様子を見る演奏が多いですが、ゆっくりのまま入って
いるのもある。どう弾いても提示部に匹敵する精彩は得られそうにありません。
つづいて序奏のけだるい所の方がプレストで駆け抜けてから第2主題の展開、
それからテンポを上げながらごちゃごちゃした展開を続けて第1主題の再現に
至ります。

 私はソナタ形式においては再現部をどう扱うかが一番のポイントだと思って
います。ベートーベン以降、大きくなったソナタ形式においては、第1主題に
帰るということ自体に若干の無理を生じるようになっており、その緩和策として
ベートーベンが使ったのがコーダの拡大だったと言えます。シューベルトは結構
凝っていて、第1主題の展開を控えていくうち最後の3つのソナタでは展開部が
中間部に変質してしまいました。ロマン派でよくやられたのが展開部の最後を
もりあげて、山の上で第1主題を再現してしまう方法で、チャイコフスキーの
第6交響曲の1楽章がその典型、ベートーベン第9も控え目ながらこのなかま
でしょう。最も明快なのがショパンで、ソナタと銘打った曲では第1主題の再現
をやめることで古典性を確保し、一方標題を伴うバラードでは第1主題から返す
ことにより(ソナタ形式という言葉から想像しがちな)絶対音楽的なものから
遠ざかるという離れ業をやっています。

 なんてことを考えていると、このソナタの再現部は芸がある方ではないです。
これは本来再現部というより展開部の問題ですが。ただしコーダには第1主題
提示部に負けない力が有ります。

 これもどえらく難しい曲ですが、4番のような演奏不能というわけではない、
しかし全部を腰を据えて練習する気にならないので、自分で弾く時には第2主題
まで弾いて、終止に入るところをねじ曲げてコーダに続けて(この大詰は到底
ちゃんと弾けないが)、それでおしまい、みたいなことをやってます。ですから
録音評も大いに偏りが出来ると思います。

 まずホロビッツ(BVCC−5122)ですが、このライブの名演奏にも少し
違和感を感じます。ホロビッツの音を捉えることにおいてRCAはCBSより
遥かに上で、このRCA復帰第1作も色彩感のあるいい録音ですが、どうも
ホールが大きすぎたようです。

 ホロビッツが芸達者すぎて、推進力の継続に問題が無いわけではないこの曲
との相性に疑問を感じる(私は少し感じる)なら、リヒテルが有ります。LP時代
から何度も出されているイタリアでのライブで、私の持っているのは
DGG 423 573-2 です。直截な弾き方でなかなか良いのですが、録音とミスの
少なさではホロビッツに及びません。

 それよりもソフロニツキ(LDC 278765)を推すべきかもしれません。彼の録音
では良い部類で、もりあがりの高さもホロビッツに勝ったり負けたりでなかなか
のもの。

 と3枚並べましたが、それでも第1主題提示はもっと凄いはずなんだが、
と思ってしまいます。この肝心の第1主題提示でアシュケナージはパワー不足、
シドンは妙なリズムが耳障り、と今1つ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

法悦の詩作品54(交響曲第4番)

 交響曲2、3番に対しても無理して余り意味の無い文章を書きましたが、
オーケストラ作品はこの1曲につきます。それで多少はましな物を書こうと
思って大阪のササヤまで資料を探しに行きましたが、ポケットスコアは出て
無いみたいですね。ピアノ曲は殆ど全てが全音出版で揃うようになったのに。

 この曲の作曲時期はピアノソナタ第5番のそれを含むのですが、この曲は、
むしろピアノソナタ第4番との間に共通点が多いように思われます。第3交響曲
でもそうでしたが、オーケストラ作品の方が一歩ずつ保守的です。和声を丁寧に
見れば第5ソナタに近いだろうと思いますが、調性感はこちらの方が強く残って
いて、むしろ第4ソナタに近い、さわやかさと軽さを感じます。神秘和音が云々
されることが多い曲ですが、私には評論家の逃げ口上にしか思えません。調性
からの離脱の途上の一形態に過ぎないとも言えるのに、おどろおどろしい名前を
強調されて、聞き手が変に構えてしまっては、この曲も作曲者も迷惑です。

 曲名がおどろおどろしいという向きには、エクスタシーと言われてワイセツ
しか考えないあなたが偏向している、と言いたいところですが、歴史的にも題名
で損をしてきた曲のようです。

 第4ソナタについて、そのふっきれた軽さを力説しましたが、その原動力は
長い歌を歌うのをやめて、短い動機の積み重ねに切り換えた点に有ります。この
切り換えはオーケストラ曲としては第3交響曲ではなく、法悦の詩で初めて実現
されました。主題が長い歌でない、ということは、息の長い音楽にならないと
いうことには全然なりません。スクリアービンの実例からはむしろその反対と
さえ言えます。

 第4ソナタとのもう1つの共通点は、その途方もないもりあがりです。
第4ソナタの演奏不能に対して、この曲はどうやら録音不能であるようです。
マーラー7番の終楽章なんか足下にも及びません。これも演奏次第ですが。
常識人の指揮者では照れが出て、行くところまで行けないのかも知れません。

 アンダンテの序奏と主部に3つの主題を持つ大規模なソナタ形式単一楽章。
フルートの第1主題が精神の飛翔、バイオリンソロの第2主題が人間的な愛、
トランペットの第3主題が意志を呼び起こすもの、その後半と聞こえる朗々と
した部分が自己主張、なんだそうです。曲の顔ともいうべきこのトランペット
を悠々と吹きまくってくれないと、この曲を聴いた気になれません。

 込入った展開部は、第5ソナタより遥かに成功していると思います。どんどん
もりあがっていって金管の半音降下の連続−自己主張の変形−で最初の大騒ぎを
迎えます。続いて”意志”、”自己主張”と金管による頂点が繰り返されます。

 再現部は序奏からですが第3主題に至って動きが増え、コーダは第2展開部の
様相を示しながら進行します。緊張と弛緩が繰り返された後、途方もない大詰を
迎えます。

 トランペットが”意志”を吹きまくって上昇していった後ろから低音金管
(トロンボーン?)による”自己主張”が襲い掛かる、鐘もこのときとばかりに
鳴り渡る − 私なぞ、ここを聴く度にこぶしを天井に突き上げているのです。
一旦静まってから、もう1度”自己主張”で頂点を築いて終わります。

 私のこの曲に対するイメージは、スヴェトラーノフ旧盤で最初に聴いて、その
たがの外れたもりあがりにたまげてから、全然変化していません。それでこの
イメージに合致しないものは受け付けられないのです。スピーカーで普通に再生
するのであれ、ヘッドホーンであれ、ボリュームは迷惑にならない範囲で
上げて下さい。リアスピーカーがあるなら、それをがんがんに効かせて下さい。

 まずスヴェトラーノフの新盤(キング KKCC−6505/8)を推薦
します。旧盤と殆ど同じ演奏で、付け加えると旧盤と殆ど同じように大詰で音が
割れて、鐘は殆ど判りませんが、トロンボーン?が頑張っているので許します。
演奏面では、トランペットのリズム感も、オケ全体の精度も旧盤にわずかに劣る
と判定していますが、大きな傷ではないと思います。

 このスヴェトラーノフのお手本がムラヴィンスキー(ビクター VDC−
25004)です。録音は1958年ライブモノラルですが、その割には極めて
優秀、演奏はたがの外れ方では負けますがオーケストラの精度は遥かに上、
トランペットも軽々と吹きまくって素晴らしく、もし演奏会場に居合せたなら
到底まともには座っていられなかったであろう名演奏です。惜しむらくは最大の
頂点でトランペットとトロンボーン?とが同時に弛んでしまう(録音の問題だけ
かも知れません)瞬間がありますが。もしモノラルがどうしてもいやというので
なければ、1万円のスヴェトラーノフより2500円のこちらの方がいいかも
知れません。でも、気にいったらきっとステレオで聴きたくなると思いますよ。

 ヤルヴィもよく似たいい演奏です(CHANDOS CHAN 8849)。シカゴSOは
レニングラードに次ぎ、DDDで録音も最高、のはずなんですが、どうも最後の
所でこぶしが上がらない。どうやらきれいに録音しようとしたのが結果的に私の
採点を少し下げたようです。

 一時期この曲の録音を片端から集めようとしました。そしてかわいさ余って
処分しまくりました。全然駄目だったのがバレンボイムとペシェク、可もなく
不可もない(結局は存在理由を認めてない)のが、アバド(これはLPで未だ
持っている)、ストコフスキー、シノポリ、インバル・・・このくらいかな?
この中ではシノポリが良い方だったように記憶しているのですが、この盤まで
たたき売っておりました。
 往年の名盤メータとマゼール、今CD店で一番目につきそうなムーティ、
アシュケナージというところは聴いていません。

 非推薦盤にあたってしまってこの曲を低く評価している方も、非推薦盤を
気にいっている方も、是非スヴェトラーノフかムラヴィンスキーで聞き直して
下さい。きっとたまげると思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

プロメテウス作品60(交響曲第5番)

 機能和声からの離脱につづいて、本格的にスクリアービンが無調に踏込んだ曲
として評価の高い曲であり、スクリアービンの後期はこの曲から始まるとされて
います。1908年から1910年にかけての作品ですから、音楽史上の意味は
非常に大きいようです。ただし私は好みません。だから回を改めず付録のように
して紹介してしまいます。

 法悦の詩まで、オーケストラ作品はピアノ作品より保守的というか縮こまった
書き方をしていたのが、この曲だけはピアノソナタ6番に先行して新しい世界に
突入しているのです。その心意気や良し。今や調性にかわる音組織が確立され、
一層短くなった動機の積み重ねによる作曲がなされています。ピアノソナタ6番
の”あの場所”はすぐそこまできているのです。しかしながら、考えたこと、
やろうとしたことが未消化のまま、この曲になってしまったように私には感じ
られます。慣れないことしてもだめ、というか、結局ピアノ曲作曲家だった、
というか。

 演奏には、鍵盤を叩くと色光を発する色光ピアノなるもの、四部合唱のヴォカ
リースとハミングが加わります。録音で耳にできるピアノの音は普通のピアノで
その他に本当は色光ピアノが加わるらしい。ピアノ協奏曲のよう、とも言える
やたらと展開部の長いソナタ形式単一楽章による曲です。大詰で合唱が加わるの
ですが、それで大いにもりあがる、というものでもありません。

 法悦の詩のためスヴェトラーノフ盤に1万円投資して下さればこの曲も付いて きます。

 

TOPへ スクリアービンの部屋へ 入門講座その    4