42.赤穂事件の不思議(2)
赤穂事件の3つ目の不思議な点は、江戸城松の廊下でで切りつけられて無抵抗で額に傷を受けた吉良(上野介)義央の屋敷が内堀の中から外堀の外の両国近くの本所松坂町に幕府によって転居させられたことです。切られた吉良(上野介)義央には何の非も無いはずなのに喧嘩両成敗の名のもとに転居させられます。
江戸城の内堀内は警備がしっかりしていますが、墨田川の東側の両国はすでに江戸とは言えない田舎でした。人通りも少なく、まさに赤穂浪士に討ち入りをしてくださいとお膳立てをしているとしか見えません。
実は、浅野(内匠頭)長矩が吉良(上野介)義央に切りかかった時に、吉良(上野介)義央も刀を抜いて応戦する幕府の筋書きになっていたのではないでしょうか。しかし、老体の吉良(上野介)義央がやられっぱなしになったのは想定外で喧嘩両成敗にできなかったため赤穂浪士をそそのかして討ち入りをさせたのかもしれません。
赤穂事件の4つ目の不思議な点は、吉良邸を討ち入りした後の泉岳寺までの経路です。討ち入りが午前4時頃始まり終わったのは午前6時頃です。その後、万年橋を渡り、海岸線を2時間ほどかけて浅野家菩提寺・泉岳寺に到着します。しかし、途中に高輪大木戸があります。大木戸は犯罪者が通るのを防止するためのものです。しかし、この大木戸を何の抵抗も無く通過しています。テロリストを何のとがめなく通過させたなら、大木戸を守る役人は切腹ものです。これも幕府が討ち入りを把握しており、素直に通過させたとしか考えられません。
赤穂事件の5つ目の不思議な点は、赤穂事件以降に高輪大木戸を泉岳寺直近に移転しています。この目的は大木戸で順番を待つ間暇な時間で泉岳寺に拝観させて赤穂事件を全国に知れ渡らせ、正当性を広めるとにあったとしか考えられません。その後、仇討ちをした浅野家はお家再興しているのにやられた吉良家は断絶しています。
これらの不思議は幕府のある目的のためであると考えると納得できます。それは目の上のたんこぶである吉良家排除による権益の獲得です。たぶん短気で後先考えない浅野(内匠頭)長矩は幕府の誰かに、あること無いこと吹聴されてうまく利用されたのでしょう。このため浅野(内匠頭)長矩に証言されては困ります。そのために即日切腹させて口封じした可能性が高いです。
1300年代より矢作川の水利権は吉良付近を支配する大名が持っており、1600年以降吉良家は矢作川の河道を変えて現在の西尾市の吉良吉田付近に持ってきました。そして、灌漑をおこない開墾して農地を増やしました。その過程で干潟の塩田で塩を作っていました。このため塩の製法を教えなかったため浅野(内匠頭)長矩をいじめたということになっていますが、既に塩は十分できていたのでうらみの理由にはなりません。60年前の1970年代までは吉良吉田の海岸ではわらを屋根状に組んだところに塩水を掛けて風で乾かして濃縮した高濃度の食塩水を窯で炊いて塩にする伝統工法をおこなっていました。
吉良家が居無くなって水利権は徳川家が握り、土木工事で矢作川の流れを変えて矢作新川を作り直轄領の開墾を進めています。