41.赤穂事件の不思議(1)
旧暦の12月14日夜、赤穂浪士47士が吉良邸に討ち入りし,吉良(上野介)義央を打ち取るという赤穂事件ですが、非常に謎の多い事件です。
吉良(上野介)義央が善政をおこなっていたということで非常に評判が良く、吉良地方では忠臣蔵の浄瑠璃や歌舞伎の評判は悪かったと言います。
ちなみに吉良はキラキラ光る雲母が取れるところから吉良と呼ばれるようになったとのことです。
赤穂事件の1つ目の不思議な点は、江戸城で吉良(上野介)義央に切りかかった浅野(内匠頭)長矩の処遇です。切りかかったその日に切腹になっており、どうして切りかかったのかの取り調べ記録が残っていません。口封じとしか思えません。
第五代将軍徳川綱吉が切腹を命じたとういことになっていますが、まずこれが非常に不思議です。綱吉は日本で初めて命は大切であると宣言した将軍であり、人も動物も保護すべきであると捨て子の保護を義務化する「捨子禁止令」や動物の殺生を禁じる「生類憐みの令」を出しました。しかし、役人の一部はこれを拡大解釈して動物を虐待したものを厳罰としたので犬将軍と揶揄されてしまいました。
このように現在に通じる考えで文治政治をしようとした綱吉がちゃんと取り調べをせずに切腹をさせるはずがありません。
赤穂事件の2つ目の不思議な点は、大石内蔵助が書いた手紙に幕府から監視されているが特に何もされていないと記しています。敵討ちを禁止していたのに大々的に敵討ちをしようとしている人物たちを放置しています。
しかも、47士の約1/3の16名の大人数が潜伏したのは江戸城の西側にある平河天満宮で、尾張藩と紀伊藩の上屋敷の直ぐ近くです。この場所の幕府での位置付けは、万一江戸城が攻められたときに将軍が半蔵門を通って尾張藩と紀伊藩の警護のもと甲州街道に逃げ込む重要な場所です。このためこの周縁は警備を厳しくしておかないと一大事になります。このような重要な場所にテロを企てる集団を放置するのはよほどの理由でもない限りあり得ません。
残りは次回