< 原子力発電というもの >
−その3−

7月、運行開始まもない中国の高速鉄道が、はや大事故を起こした。
その直後からすごい勢いで報道が始まった。
と思ったら、その熱狂的な事故報道は数日間で、ぱったり止んだ。
なぜだろう。報道管制のせいだろうか・・・

中国列車事故の報道に仰天しながら、頭の中ですぐに重なったのが、日本の福島原発事故だった。


朝日新聞(7.25)とニュートン誌6月号

鉄道も原発も、いずれも複雑な機械をベースに成り立つ装置産業だ。
機械装置である以上、すべてが厳密に自然科学の法則に従って動作し、機能する。
世の進歩と共に、より高速に、より強力に、より快適に、安全にと、常に高い目標が掲げられて進歩してきた。
要求が高度化すれば、対応技術も年々高度化し、最先端の科学技術を結集して現在のシステムができてきたはずだ。
少なくとも、そういう技術的背景の中で進んできたことに違いはない。
だから原発も、「原子炉」とか「タービン」とか「発電機」、「制御システム」など、コンポーネント単位で見れば、
恐らく、時代の最高の技術で設計され、作られてきたには違いないと思う。
40年前の装置は40年前の技術だが・・・

ところが、鉄道や原発のようにシステムが巨大化してくると、技術全体の見渡しが困難になってくる。
コンポーネント単位では、技術が年々高度化する一方で、
それぞれのテリトリーから外れる部分、つなぎの分野では相対的に技術レベルが疎かになりがちだろう。
センサーやらアクチュエータやら、バルブや配管、配線、制御ソフト、土木施設等々、
何万という膨大な工作物が、すべて正常に作られ正常に機能しているという前提のもとに、システムは成立している。
「ジャンボがぶつかっても原子炉は安全だ!」
などという人がいる。
原発の衝突実験などは聞いたことがない。
こんなノーテンキなことを言えるのは、科学技術とは無縁な人たちに決まってる。

原子力の危険性を知る良識ある科学者・技術者は、次々原子力ムラを離れ、警告を発してきた。
にもかかわらず、しっかりした科学技術の見識を差し置き、産業だ、エネルギーだ、と押し進められてきた原発は、
「政官業学」という非科学推進体制の成せる技の典型だろう。
ここにある「官」は行政のみならず司法をも含み、「学」はいうまでもなく「似非学者」だ。
この最強体制によって、実に信じられないような非科学的巨大システムができ上がっていた。
地震国日本において、あっさりと制御不能に陥り、放射能をまき散らして、いまだ終息のめどもつかない原発。
「想定外」という便利用語のもと、「あとは野となれ山となれ」で、何万の住民を路頭に迷わせている。
中国高速鉄道事故も、恐らく同根だろうことは想像に難くないが、彼我の差は大きい。

原発は、科学技術の粋の結集の下にのみ成立し得るものだと思っていた。
しかし気がつくと、原発はわけのわからぬ非科学的力学の中だけで成長してきてしまった。
最近、九州電力をはじめ各地で話題になっている、原発推進のための市民集会での「やらせ」問題などは、
こんな手まで使わないと原発は成立し得ないという、非科学性の一面の証だろう。

原発は、緊急のときには、確実に止めることができない代物だとわかった。
なにしろ、あとは野となれ山となれ、、、なのだ。
非科学的力学の上でしか成立し得ない原子力産業など、この世にあってはならないと思う。

(2011.9.11-14)


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