2011.07 FrontPage


< 原子力発電というもの >
−その2−

原子力発電というものについては、これまで不勉強すぎた。
放射能漏れだ、事故隠しだ、データ改ざんだと、あれこれ報道で流されるときは関心を寄せるが、
のど元を過ぎれば、いつの間にか忘れてしまう。

12年前に死者2名を出した、東海村JCO臨界事故ですら、
年月を経るうちに、どんな事故だったのか、世間から忘れ去られてしまった。
しかも、忘れてくれては困る原子力の専門屋までもが、
どうも、しっかりした安全策を考えないまま、我々同様に忘れてしまったらしい。
(極めて悲惨な放射線被曝事故だったようだが、あれは「原発事故」ではない、と)



黄昏の浜岡原発5号機
(政府の要請を受けて停止中 2011.7.17)


思えば原子力発電とは、なんとなく、
先端的科学技術が総結集された高度巨大プラント、というイメージがあった。
ところがどっこい、
原発ほど政官業という非科学的粘着性土壌に育まれて膨らんできたものはなかった。
その非科学的土壌はちゃんと、
一見科学技術の目付け役と思わせる、元帝國大学謹製の御用学者で補強してあるから盤石なのだ。

その結果なのだろう。
原発は、一旦緩急あらば全く制御不能、というお粗末なものに仕上がっていた。
あきれるほどチャランポランなシステムが堂々と存在してきたことを思い知らされることになったのだ。
電力会社は、日常は「安全・安心」と唱えながら、
ことが起きれば「想定外」を逃げ口上にして、「あとは野となれ山となれ」を決め込んでいたわけだ。
真に許しがたい無責任経営だった。
原発に「安全」とは似つかわしくもない、「無い物ねだり」のようなものだったのだ。

翻って、
この期に及んでも相変わらず原発の必要性を声高に唱える御仁を眺めてみると、
ほぼすべてが経済的理由から必要性を主張している。
原子力安全委員会の委員までそう言うのだから始末が悪い。

「社会のために原発は必要。もちろん安全でなければならぬ」、
と、ここまでは皆、オウムのように同じことを言う。
ところが、
非科学的土壌を守る人たちによると、これは、
「安全でなければならぬ」→「安全に設計されているはず」→「安全なはず」→「安全だ」
と、いつの間にか「必要。だから安全」に、論理がすり替えられてしまう。


原発は、原発災害を引き起こした、今現在の禍根だ。
未来に禍根を残さないために、今起きていることを真摯に見つめ直さなければならないと思う。

2011.7.19-24


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