先んずれば人を制す(さきんずればひとをせいす) |
意味:他人よりも先に事を行えば、有利な立場に立てる。何事も後手にまわってはいけない。 |
秦の二世皇帝の元年七月、陳渉(ちんしょう)らが大沢郷(だいたくきょう)で乱を起こした。
その年の九月、会稽(かいけい)の郡守殷通(いんとう)が項梁(こうりょう)に言った。
「江西はみな反乱を起こした。今まさに天が秦を滅ぼそうとしている時だ。人に先んじて行動を起こせば、人を制することができるが、遅れれば、人に支配される、と聞く。わしは兵を起こそうと考えている。
そちと桓楚(かんそ)を将軍としたい」
この時、桓楚は沢中を逃亡しているところだった。項梁は
「桓楚はただいま逃亡中です。どこにいるかわかりませんが、項籍(こうせき)だけは知っております」
と言った。そして、項梁は外へ出ると項籍に、剣を持って外で待つように言い含めた。その後、また中に入ると、郡守と一緒に座って言った。
「項籍をお呼びください。あれに桓楚を召喚する命令を与えていただきたい」
郡守が
「よかろう」
というと、項梁は項籍を呼び入れた。しばらくして、項梁が項籍に目配せをして、
「やれ」
と言うと、項籍は剣を抜いて郡守の首を切り落とした。項梁が首を持ち、郡守の印綬を身につけた。
郡守の配下たちは狼狽して慌てふためき、項籍は百人ほどを撃ち殺した。
役所中の者がみな恐れ伏して、あえて動こうとする者はなかった。
そうして、項梁はかねてから知っていた豪傑の郡吏を呼び集めると、秦に背いて兵を挙げる理由を説いた。そして、ついに呉中で挙兵した。
人を使って属県を支配下に置くと、精兵八千人を得た。
また、呉中郡で声望、才能のあるものを配置して、それぞれ、校尉、候、司馬とした。
その中の一人で任用されなかった者があった。自ら項梁の元へやって来て訴えた。項梁は
「以前、葬儀があったとき、わしはあなたに仕事を頼んだが、うまく取り仕切ることができなかっただろう。だからあなたを任用しないのだ」
と言った。人々はみな敬服した。
こうして、項梁は会稽の郡守、項籍は副将となり、兵を率いて各県を巡行した。
【史記・項羽本紀】
※郡守・・・郡の長官
※項籍・・・項羽のこと。「籍」は名。「羽」は字(あざな)。