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「音楽を生きる」村田武雄 NHKブックス より よく見れば なずな花咲く 垣根かな 芭蕉 わたしの鑑賞と生活との過程はこの句の内容によってつきるし、またこの句のしめす真実こそ、鑑賞と人間とを結ぶ、唯一のきずなである。 (芭蕉の句は、いろいろな人の解説に引用されている。それは短い句の中に、人生の真髄がよまれているからだろう。) 今回は、音楽を通じて、芸術とは何か、さらには生命とは何かを考えてみます。 「音楽を生きる」 序 音楽のこころ 音楽は人間が生存する上の補助的必要物ではなくて、必需なものとみなされて、人間の生活の中で、自然に構成されまた発展されたのである。 しかし音楽がなぜなくてはならないのか、いったい誰が理を尽くして証することができるであろうか。なぜ必要かを知って求められるものと、その理由ははっきりしないが、求めないではいられないから求めるものとがある。芸術は多くの場合そうして人々が求め愛してきたものだ。 芸術は、もともと人間のために、また人生をよりよくするために存在するものである。したがって人間がより充実した人生を築くために、自ら求めてゆくところに価値と意義があるのだ。他から与えられたものをよしとして受け入れるのではなくて、自らが納得できるものの中に生きる喜びを発見することが、芸術が人間に与えられるもっとも大きな価値であり意義である。それは固定しまた定着するものでない。常に変化し展開してゆくものである。 音楽がわかる、音楽が美しいと認識できるのは、その内容と美とをめいめいが自分で創造できる力を持っているからである。いかに学理をきわめてもまた専門家の解説を知っても、文字の上から得たものでは、音として流れる音楽の本質的内容には達せられない。音のもたらす連想と感動とを引き起こす根本の力は、各自の感じ方によって決定されるのである。その感じる力を、直感とも感受性ともいえよう。しかし、どの言葉もその真髄をあらわすことは出来ない。それはむしろ生命と称したほうがよいかもしれない。まことに、音楽は生命のあり方と一致する。音楽は時間に支配されたリズムによって流動する。そこのはリズムの緩急はあるが、停止は許されない。しかも、音楽と生命とは、記憶によって一つの連続と感じられるのである。したがって、音響がわれわれの中に入ってきて、われわれの生命と融合する。そこに音楽の内容がわれわれの人生経験と同質のものとなる。そして、その人間だけの理解と感動とができあがるのである。それには、めいめいが、自己の生活圏の中に音楽を入れなくてはならない。 音楽は時間に支配されたリズムによって流動し、それには緩急はあっても、終止するまでは停止を許されない。それは考えようによっては、前にも述べたように、われわれの生命のあり方と一致する。そのために、音はわれわれの中に入って、生命と融合する。したがって音楽をすることは人生の体験であるとも考えられるのである。 人間は物理的に消滅した時間を、抽象的に生かしつづけているのである。昨日、追想、思い出などの言葉は、なくなった時間への呼びかでであり、明日、予想、理想などの言葉は、まだ実際にとれるかどうか判然としない未来の時間へのあこがれである。 なくなった時間、まだ与えれれるかわからぬ時間、それも現実に生きた時間として認識したい、その心理的時間への欲求が、人間に音楽美にふれる喜びを与えたのである。 (感想) 音楽は、時間と密接な関係がある。それの停止は許されない。生命も同様である。生命の停止は死である。音楽は、現在に響いている音そのものだけではなく、消え去った音(過去)と、そしてその次に来るべき音(未来)を連想させ成立している。それは人間の、生きる実感を得るための欲求ではないか。われわれは、現在だけで生きているのではない。過去の思い出と、未来への期待の中で、現在を生きているのである。もし、現在のみがすべてであれば、まったく殺伐たる時の一瞬しか感じ得ないのではないか。まさに、音楽は生命のあり方と一致し人間の存在の意義をも表現しているものであると改めて認識させられた思いである。 |
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