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世紀末にあたって 1999年12月31日 月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行(ゆき)かふ年も又旅人也(たびびとなり)、予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず 松尾芭蕉 江戸時代前期の俳人、松尾芭蕉『奥のほそ道』の冒頭の言葉 古代日本人にとって「日月(じつげつ)」というものは何を意味するのか。それは、すべての生きとしいけるもののシンボルとして永遠に生死の旅を続けるものであった。月も日と同じく満ち欠けによって生死の理(ことわり)を示すものであった。 「月日は百代の過客」というのは、正にこのような意味であろうが「行きかふ年も又旅人」であるというのはどういう意味であろう。月日は目に見えるが、年は決して目に見えるものではない。しかしそれは厳然として存在する。「年」にもまた「春夏秋冬」即ち生死があるというのである。つまりこの芭蕉の言葉は、目に見える天体である「月日」も永遠に生死を繰り返す旅人で、目に見えぬ「年」という宇宙の運行そのものもまた、永遠に生死を繰り返す旅人という意味なのである。 「おくのほそ道」の冒頭のこの言葉は古代的宇宙論を示すと共に、季の芸術、俳諧の根本を語っているのである。 梅原猛著「百人一語」新潮文庫より
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