愛知県碧南市 あと数センチの段差は思いやりを込めた厳しさなのかな

ありがとう

清浄院の坂

バリアフリーにあと少し 乳母車を押すお婆ちゃんの姿が目に浮かぶ

<大浜「清浄院」の山門にある「ありがとう」。コンクリート製の坂には段差がひとつ。少しばかりの困難は自らに厳しさを求める「武士道」精神の思いやり。かつて徳川家康を護衛した住職は武士出身であったことが関係しているのかも> 天正10年(1582)6月4日、「本能寺の変」により三河の大浜へと上陸した「徳川家康」を鷲塚まで護衛した人物がいた。 もとは武士の出身であったという大浜「清浄院」の住職である。徳川家康に「何者か?」と問われ、「大浜の清浄院ッ!」と声高に答えたという。 そんな話のある清浄院を訪ねてみれば、山門入口には階段ともに右手には小さな坂が備えられていた。 古来は存在しなかったであろうコンクリート製の坂で、長さ2.92メートル、幅1.15メートルの大きさ。 おそらく乳母車でも参拝出来るようにという配慮なのだろう。 だがこの坂にはひとつ不可解な事がある。道から坂へと上るには、高さ25センチの一段を越えなくてはならないのだ。 私はこう考える。これは清浄院の「思いやり」ではないかと。あえて一段障害を設けることで世間の厳しさを伝えていると。 ”自らに厳しく節する”という、どこか「武士道」にも似た心遣いは、やはり清浄院である。

ヘボト自画像ヘボトの「随喜(ずいき)の涙」

「如光さんの飴」

碧南市の先端に位置する西端。昭和30年(1955)に明治村から唯一、碧南市へと編入し、鷲塚と共に「蓮如上人」に縁ある地域である。 油ヶ渕近くにある「応仁寺」は、「蓮如上人がいつでも戻られるように」との願いから、無住無檀の寺として代々守り継がれてきた。 元禄3年(1690)に始まったとされる「蓮如忌」は西端の風物詩ともいえる。往昔、西尾方面からも船に乗って参拝者がやって来る程の賑わいを見せていたが、 戦後を境に規模も小さくなり、寂しい限り。それでも西端の人々は、「蓮如上人に縁ある西端」を誇りとして、毎年4月下旬に蓮如忌を行っている。 油ヶ渕遊園の一画に「如光坊出現御わらべ姿」という石像が東を向いて立っている。 如光は蓮如上人の弟子で、油ヶ渕より藻にのって現れたという神童伝説のある人物。 蓮如忌の行われた日、その如光像足下に一袋の飴が「供物 どうぞ召し上がって下さい」の貼り紙を添えて置かれていた。 この言葉すべてに、蓮如上人の教え受け継ぐ西端を見た気がした。

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