愛知県碧南市 伏見・稲荷神社は謎多き場所 何故ここに?「錆びた兜」の謎
<「皇太神宮遙拝所」に置かれる謎の鉄兜。一体、何の目的で置かれているのか? 風雨に晒されて赤茶けた鉄兜。直径23センチ、高さ14センチの不思議。伏見屋の人々が感謝の意を表して建てた「三宅社」の裏で謎解きは始まる。なぜか鉄兜は移動しているのだが…> 寛文11年(1671)に、ほぼ完成したといわれる伏見屋新田。日本橋茅場町の幕府御用達商人であった2代目・三宅又兵衛は、伏見屋新田開発に尽力し、最後には破産に近い状態となって江戸へと帰る。 伏見・稲荷神社の敷地内に、人々は感謝の意として「三宅社」を建立する。社殿内には三宅又兵衛の肖像が掲げられ、社の傍らには「三宅氏ニ追従シタル7氏」として、それぞれの名が記されている。 地内の邸宅表札を見れば、その子孫たちが伏見の地を守り継いでいることを知る。 さて、その三宅社の西に「皇太神宮遙拝所」がある。石標には昭和18年(1943)10月の文字。 「皇太神宮遙拝所」は、幅223センチの台座に高さ160センチの鳥居が立つ規模で、鳥居の向こうには「市立日進保育園」が覗く。 いたって普通の「皇太神宮遙拝所」だが、ひとつだけ他と異なる点がある。踏み石に置かれた一つの鉄兜。 直径23センチ、高さ14センチの大きさ。前方に3センチの鍔と後部に8センチの覆い。風雨に晒され、錆びて赤茶けている。 子供が被るにしては小さい。それに鉄製である。何の目的を持ってこの「皇太神宮遙拝所」に置かれているのか、謎である。 時折、台座に移動していて、これまた不思議なのだが。
<「なぜ暴動を鎮静化させた孫市は、打ち首となったのか?」 享保3年(1718)に詐欺を働いた若僧は貞正庵へと隠れる。捕らえにやって来た役人を盗賊と勘違いし暴動に発展。鎮圧に協力した西尾のばくち打ち親分・孫市だが…。貞照院事件は、妻が流罪となった夫を慕う物語「きく女の手紙」を生み出すこととなる> 碧南市行政が制作する観光案内に必ず登場する名刹、「金基山・貞照院」。 応永年間(1394~1428)に建立され、もとは神有役所の門であったという、茅葺きの山門が出迎えてくれる人気のスポットである。 現在、この凛とした佇まいを見せる貞照院だが、享保3年(1718)に世間を騒がせる大事件が起こる。 ある若い僧2人が、日本橋の白木屋で袈裟地敷物を騙し取る。ひとりは捕まるが、もうひとりは貞正庵(後の貞照院)に逃げ込んだ。 貞正庵に踏み込む役人を貞正庵側は、昼中の盗賊と勘違いし、鐘を突いて緊急の事態を知らせる。その騒ぎに集まってきた農民達が役人に暴行を加えてしまった。 騒ぎは大きく暴動へと発展し、役人は西尾のばくち打ち親分であった「孫市」に暴動鎮圧を依頼する。 孫市が農民に金品を与えることで収拾したが、その騒ぎの間に貞正庵へ隠れた若い僧は逃亡してしまった。 この暴動事件を貞照院事件、または「孫市事件」という。事件の関係者は裁かれ、孫市は「打ち首獄門」のうえ、首は貞照院北の三角山に晒される。 暴動鎮圧に協力した孫市が、何故「打ち首獄門」の裁きを受けたのか? この事件の大きな謎。 この貞照院事件は、加藤菊女が島流し夫を慕い、奇跡の起こった民話「きく女の手紙」に関係する。 加藤菊女の夫である「加藤友右衛門」(のちの加藤四郎左衛門泰儔)は、貞照院事件の罪を問われた父・加藤四郎左衛門泰栄の身代わりとして、伊豆大島に流罪となっていた。
8月の盆3日間の夜7時過ぎに、伏見の共同墓地を訪れてみれば、不思議な光景に出会える。 伏見屋共同墓地は日進町の1丁目にあり、通路を境に南を古い墓石、北は比較的現代の墓石が占める。 特に南の古い墓石ある敷地は、古木も繁り、いかにも旧来の墓地といった感で雰囲気。 墓地の中心にある「十福圓満」と額の掲げられた地蔵堂前で、仮設のテントが張られていた。 ゴザが敷かれ、正座した人々が向かい合い、ひとりがぶら下げられた鐘を「チンチンチンッ」と叩き続ける。 墓地は真っ暗な闇である。地蔵堂に灯された蝋燭の明かりが、人々のシルエットを浮かび上がらせ、幻想的な世界を醸し出す。 これが、明治18年(1878)より、現代に続く「チンチン叩き」と呼ばれる慣習である。先祖の霊とお地蔵様に感謝する目的で始まったとされる。 先祖の墓参りに訪れた人々は、労いの言葉をかけ、ゴザ上に賽銭を置いていく。午後7時から始まった「チンチン叩き」は、午後9時まで行われるという。
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