愛知県碧南市 指は誰のものか? 三河地震で姿を消した指の持ち主を探る
<奇抜に着色された石仏の横に並ぶ一枚岩。穏やかな表情を見せるお地蔵さんの横に正体不明の指。最初から袈裟の袖までの存在であったのか? 右と左で明らかに異なる字体の意味は? 三河地震で現在の姿にと聞くが…> 毘沙門さんで有名な妙福寺。弘法堂の北壁に静かに佇む一枚岩のお地蔵さん。隣には赤い法衣を纏い、真っ白な顔で赤い口紅を付ける阿弥陀さんの姿。 奇妙な組み合わせに足をとめる人も多く、目立つ存在。この「一枚岩のお地蔵さん」に私は妙な違和感を覚えた。 一枚岩のお地蔵さんは、高さ123センチ、幅68センチ、最も厚い部分で16センチと、随分立派な大きさの一枚岩である。 雲に乗った立像のお地蔵さんが彫られ、頭部6センチの大きさに収められたお地蔵さんの表情は、実に穏やかで見る者を和ませる。 さて、問題は、そのお地蔵さんの左に彫られた「示す指」である。袈裟の袖らしきものが見え、人差し指で方向を示す。垂れ下がる袈裟の袖は、高さ38センチ。 「昭和20年(1945)1月13日に、この地方を襲った三河地震で倒壊し、割れてしまった」と話に聞いたことがある。 以前は、その指の人物が存在していたと…。裏付けるように「右 にしを をかざき」と「左 尾州かめさき」とでは字体・大きさが異なる。 これは、本来あるべき左側の欠損部分に、元々「左 尾州かめさき」と刻まれていたのでは。 迷える我々の祖先を進むべき方向へと導いた人物は、確かにいたと期待する。
<かつて一枚岩のお地蔵さんは「おりどの坂」と呼ばれた坂の入り口にたっていた。鷲塚へと向かう旧道であり、古来、この東には海が広がっていた。美術工芸家・藤井達吉が故郷・棚尾をおもい、歌に詠んだ「おりどの坂」を歩いてみよう> 旨い天丼と中華そばが私のお気に入りである「寿し長」。その店先にある辻を左に行くルートは、鷲塚へ向かうかつての旧道。 下り坂を行けば、左手に「寿し長」の駐車場案内看板が見えてくる。この看板のある場所が「一枚岩のお地蔵さん」がたっていた場所。 左へと逸れる小道は、往昔「おりどの坂」と呼ばれた。先は昔風の道らしく屈折を従い、堀片地蔵のある方面へと向かっている。 平七新田などの新田開発が盛んに行われる以前には、この辺りは入り江となり、東には平坂街道の渡船となる「庄三の渡し」が存在した。 明治14年(1881)に棚尾で生まれた美術工芸家・藤井達吉は、「正月の来たる坂ぞと楽しめし おりどの坂吾たづね来し」と、この坂のことを歌に詠んでいる。 この「おりどの坂」は、現在でも車一台がやっと通れる程の狭い幅だが、昔はもっと狭く大八車がやっと通れる程であったという。
棚尾・妙福寺にある弘法堂の北に、円形状の段々となった台座に、たくさんの石仏が並んでいる。 これらの石仏は、世話役がいなくなったり、区画整理に従い邪魔となり…といった理由で各地より集められた石仏である。 数えたことはないが、おそらく100体近いのではないか。多くがお地蔵さんだが、なかには阿弥陀さん、観音さんの姿も見える。 私はこの石仏群を細かく見ていくのを楽しみとしている。刻まれた文字などから、「あっ あの場所にあったお地蔵さんか」と由緒などを推理する。 数ある石仏から、私はある一体に興味を持った。下段にある41センチ高の石仏。鼻筋も通り、頬も見える。その姿はどこか西洋宗教的な造形。 10センチの頭部は、石ではなくモルタルで形成されており、何らかの理由で頭部を損傷し、修復したと思われる。 もの優しい表情は、実に見ている者の心を穏やかにさせる魅力に満ちている。 ぜひ一度、この地蔵が並ぶ妙福寺を訪れて、お気に入りの石仏を見つけてみよう。
< text • photo by heboto >