愛知県碧南市 大浜は城壁都市だった可能性も? 姿を現した「巨大な石垣群」
<歴史に埋もれた石垣群は、その存在を知らすべく、人を介して私に語りかける。「宝通」と呼ばれた道の中程で南北40メートルの石垣群が存在を露呈する。住宅の土台だと思われていた石垣だが…。付近一帯は大浜・林泉寺の寺領であったらしい> 名鉄三河線・碧南駅から西へ向かう一方通行路。大正時代の案内図には、「宝通」と示された道だ。 道沿いには昔ながらの店が構え、栄えた頃の大浜を感じさせる雰囲気も見せる。 右から「再生病院」と書かれた建物や、大正時代の雰囲気漂わせる「カネ由商店」の建物など、どこか懐かしい。 中程に「菓子舗 つくし」という和菓子店がある。「あそこに見える石垣、昔は旧・商工会議所の裏から、『神谷医院』さんのあたりまで続いていたんだよ」と教えてくれた人がいた。 目を凝らせば、「菓子舗 つくし」の斜め南向かいにある駐車場に、約1メートル高の石垣が40メートルに渡って南北に続いている。 独特の赤茶けた色をしており、面の凹凸が粗い。一見、住宅の土台として造られたように思えるが、何軒にもまたがっている。さらに南端には、回り込んで階段も造られていた。 「何がここにあったんだ…」と呟く私に、「この辺一帯は、林泉寺さんの地所でね、それ以外はわからん」と語りかける婦人。
<碧南市史上、最大の発見か!? 南北280メートル・最高地上高2メートルの石垣群が浮かび上がる。これだけ大規模な建造物に「まさか、大浜は『城壁都市』だったのでは!」と期待。並行して走る往昔の岡崎街道にも新たな石垣が…解明されていない謎の遺構は私達の前に姿を現す> 「昔は2メートルぐらいの高さがあってね、むかしの○○醤油さんのあたりまで続いていたらしいよ」と言い残すと、婦人は足早に大浜・宝珠寺の方へ消えていった。 どこの醤油屋さんか、聞き取れなかった私は、得意の「昭和35年・碧南市住宅地図」を取り出し、「丸栄醤油醸造所」を見つける。 聞いた話を統合してみると、驚きの事実が浮かび上がる。南北に280メートル、最高地上高2メートルの石垣群が存在したということか。 碧南駅から一方通行の道を歩いたことを思い出す。緩やかな坂が、丁度、石垣のラインに差し掛かる辺りで急に標高を上げていき、大浜街道との交差で頂となる。 大浜街道側から見れば、碧南駅は随分低い。碧南駅前は旧字「海老取」と呼ばれて湿地帯が広がっていた。 往時、その湿地帯から西を望めば、「欧州の城壁都市のように壮大な景観が広がっていたのでは」と期待してしまう。 地図で改めて確認すれば、石垣は往昔の岡崎街道と平行していたことが伺える。 「丸栄醤油醸造所」跡の東から碧南駅北の踏切までの岡崎街道には、古い石垣が組まれているのだが、これはひょっとして…。
海老が棲む泥沼地が広がっていた事から由来の旧字「海老取」は、現在の碧南駅周辺。その埋め立ての使用されたのが、「善明坂」の土砂である。 「自転車を降りなければ、のぼれんかった」、「淋しい場所で怖かったけど、西端の蓮如さんに行くのによく通った」などの証言があがる善明坂。 碧南駅北の踏切から北東へ行く道、善明町2丁目・3丁目を挟んだあたりが善明坂と呼ばれたようである。 現在は、僅かな傾斜しかない道となり、急坂であったという面影は全くない。この「善明」という名の由来は不明だが、江戸初期の検地帳には既に記されており、歴史ある地名である事が分かる。 昔は、この善明坂を通って碧南市役所東あたりまで行けたようだが、現在では作塚町一丁目の境で道は途絶えている。
< text • photo by heboto >