愛知県碧南市 歴史に埋もれた岡崎街道を探せ! まずは「宝珠寺」に向かう

碧南の不思議な話

岡崎街道現れる

お地蔵さんの前から始まる「岡崎街道」 宝珠寺は「長田重元」の屋敷跡

徳本稲荷横のお地蔵さん

<大浜・宝珠寺の敷地内、徳本稲荷の片隅で「右 大濱道 左 平坂道」と道案内をするお地蔵さん。いつの頃からあるのかは不明だが、その柔和な顔立ちに訪れるファンも多い。歴史的にさほど重要ではなく、数あるお地蔵さんのひとつに過ぎない…そう考えていた私だが> 大浜・宝珠寺の敷地内に徳本稲荷がある。医術に優れた才能を発揮した永田徳本に由来する社で、故に徳本稲荷には、病気平癒を願う人々が訪れる。 その社の北壁に、2つの墓石に挟まれたお地蔵さんがある。平たい一枚の岩に彫られたお地蔵さんは、実に優しい顔をしており、徳本稲荷を訪れる人は、ちゃんとこちらも拝んでいく。 お地蔵さんの下には「右 大濱道 左 平坂道」と道案内が刻まれる。「右」とは、大浜・西方寺の門前に出て「大浜街道」へ至ることを示す。 「左」の「平坂道」とは西尾市・平坂のことで、さらにそこから旧東海道の小坂井へ至る「平坂街道」が続いている。 矢作川を挟んだ平坂とは、明治23年(1890)に「棚尾橋」架橋により、実質的に地続きとなるが、それ以前は棚尾の「庄三渡し」という渡船を利用していた。 お地蔵さんが示す通り、左である東へ向かえば、大浜弁財天横を通り、大正通を経て、源氏橋で棚尾へ入る。いたって明快なルートだと納得した。 ただ「優しい顔のお地蔵さんが道案内をしている」としか捉えていなかった私は、後にこのお地蔵さんの重大な存在理由を知ることとなるのだが…。

岡崎街道と思われる道

<全てを察した婦人が言葉を投げかける。「お地蔵さんから始まるこの道が岡崎街道」の真実。岡崎街道は、源氏橋ではなく子種橋だった。お地蔵さんは意味もなく、あの場所に建立されたのではなかった。天正10年(1582)に「本能寺の変」が起こる。大浜から岡崎へ、徳川家康はこの道を行ったのだろうか> 「稲荷の隣にお地蔵さんがあるの分かる?あそこから始まるのが岡崎街道で、つまりこの道!」と、地図を片手に迷走する私に婦人は話しかけた。 私が脇に抱える資料名から、私の目的がすぐに分かるとは、さすが大浜の女性である。 本来、大浜における岡崎街道とは、湊橋から堀川沿いに進み、源氏橋で棚尾へというルート。つまり現在の県道43号線「岡崎・碧南線」であると周知されてきた。 それは間違いではない。だが先述の婦人の証言によると「源氏橋なんて大正時代に出来た橋だよ」とのこと。 古来からある「岡崎街道」とは、徳本稲荷横のお地蔵さんを起点として、北東へ向かう道に入り、「亀島織布工場」跡の北を通って「フレッシュマート・ウメムラ」前で踏切を渡り、子種橋を経て棚尾へ入るルートである。 その信憑性は、碧南の民話「小谷がつぼ」からも伺える。お地蔵さんある宝珠寺は、もとは武将・長田重元の屋敷。 天正10年(1582)の「本能寺の変」で高浜市・田戸に辿り着いた徳川家康は、長田重元のいる大浜羽城へ迎えられたという。 三河の地に着いた安堵の表情から、一転して天下を狙う男の顔となった徳川家康は、岡崎を目指し、この道を行く。 護衛する者のなかには、武士出身であった大浜・清浄院の住職の姿が…なんて光景が実際にあったのだろうか。

ヘボト自画像ヘボトの「街談巷説(がいだんこうせつ)」

西方寺前へと向かう旧道

「大浜街道は西方寺前に」

昔、大浜街道と呼ばれた道があった。大浜の湊橋から大高を経て、鳴海で東海道へ至る。 現代の県道50号「名古屋・碧南線」が相当する。碧南市内においては、ほぼ現県道50号の通りだが、始まりである大浜で一部異なる。 今では真っ直ぐに西方寺・太鼓堂まで北進するが、大昔は現在の海徳寺白壁から鰻屋の「十一八」東を通り、旧・赤堀眼科の東玄関前を経て、徳本稲荷方面からやって来る道と合流し、西方寺山門前へと出る道順を辿った。 現在、大浜小学校にある「大浜町元票」も、かつては西方寺向かいの軒先付近に置かれていた。 まだ宝珠寺が長田重元の屋敷であった戦国時代には、西方寺前は兵の集合場所であったという。 天文16年(1547)に織田信長が大浜を攻めた際に、ここから長田重元の兵たちが、戦地となる天王へと向かったのだろうか。 なんだかロマンを感じさせる話である。

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