愛知県碧南市 水鉢に「明光寺」の文字現れる 謎多き「妻薬師堂」の正体とは?
<謎多き妻薬師堂。寛文7年(1667)創建とだけ伝えられてきた。水鉢に残る「明光寺」の文字。これは一体何を示すのか? 大浜町誌に登場する謎の人物「江空恵美吟上人」とは? 明光寺はどのようにして生まれ、そして消えたのか?謎は深まるばかりである> 大浜南部の本伝寺と称名寺に挟まれた場所に位置する「妻薬師堂」。碧南市内でこれ程、謎の多い寺院はない。 分かっていることは、寛文7年(1667)に創建されたという史実だけである。 妻薬師堂の境内、桜の木の下に水鉢がある。ボロボロの表面は、幾多の風月を経て来ただろうことを想像させる。 何の変哲もない水鉢に見えるが、これが妻薬師堂の謎をさらに複雑にしている存在のひとつである。 長さ77センチの面に刻まれる「明光寺」の文字。昭和4年(1929)11月30日に発行された「大浜町誌」に興味を惹く記述を見つけた。 薬師堂の項にて「妙光寺(今は無い)の創立であると左の通り海徳寺過去帳に記載してある」として、「開山遷化月日 天和参癸亥年十月廿三日下妙光寺開山江空恵美吟上人死去すと」である。 天和3年(1683)とは、伝えられる寛文7年(1667)から16年後。「江空恵美吟上人」はどんな人だったのか?一切の資料はない。 明光寺と妻薬師堂の関係も謎のままだ。さらに大浜町誌には現在の妻薬師堂・本尊について、「薬師如来臺座下に左の如く記載 寛文七丁未年大濱南村イマ女寄付す」とある。 「イマ女」とは誰か?何やらこの妻薬師堂には、とんでもない謎が隠されいるかも知れない。
<仏像好きには一日過ごせる場所が妻薬師堂。各地より集まってきた仏像をひとつひとつ丹念に眺めるのも面白い。だがいつもは閉じられている妻薬師堂。イベント時に訪れてみては? 不思議な赤灯籠の六地蔵では、かつて念仏踊りが行われ、まわりをグルグルと回ったという> 人々の間で「妻薬師さん」として親しまれる「妻薬師堂」。 現在、妻薬師堂は無住であり、普段は閉じられている事は実に残念。本尊とされる薬師如来は秘仏で、その姿を見た人は皆無。 私もおそらく、生涯一度も薬師如来像の姿を見ることは出来ないだろう。妻薬師堂には各地より集まってきた仏像が安置される。 妻薬師堂を謎多き寺院としているのも、これらの仏像が一因している。もはや由緒の手掛かりさえなくなってしまった仏像達。 昭和33年(1958)に一度、大学の偉い教授が調査した際に妻薬師堂から純金の大黒像が発見されたという。煤けて真っ黒な姿に誰も純金とは思わなかったというエピソードが残る。 今では他所に保管され当地にはない。 外に目を向けてみれば、有名な赤灯籠の六地蔵。妻薬師堂ではなく、十王堂と共に称名寺に関係のあるものとされる。 昔はもっと南に位置し、赤灯籠の六地蔵を囲んで念仏踊りが催されたと聞く。支える石柱には、何やら装飾と文字が刻まれていた跡があり、現在判読可能なのは「○○○地○堂」(○部分は不明で数は適当)の2文字のみ。 全て判読できれば謎も解けそうである。
妻薬師堂内部の左側、阿弥陀如来立像と並んで簡素な厨子。内部には高さ55センチの「青面金剛像」が鎮座している。 台座部分には「見ざる、言わざる、聞かざる」の3匹の猿。青面金剛像は、一面三眼六臂の姿で、手には人の生首を持つ。 この青面金剛像は、庚申講の本尊として知られることから、この地でも「庚申講」が行われていたことを表している。 「庚申講(こうしんこう)」とは中国より伝わった民間信仰で、「人間には三尸(さんし)という3匹の虫が棲んでいて、その人の悪事をいつも監視し、庚申の日の夜、人々が寝ている隙に天帝に悪事の報告する」とされ、 三尸が夜に天空へと上るのを防ぐため、人々は庚申の日に夜通し酒盛りなどをして過ごしたという。 庚申講は江戸時代後期に全国に広まり、盛んに行われた。宗教的な意味合いはあるけれど、内容は地域親睦会のような催しだったようである。 この青面金剛像の前で、かつて大浜の庶民が赤ら顔で幸せな時を過ごした。なんだか微笑ましく思えてくる。
< text • photo by heboto >