愛知県碧南市 頼りになるのは一本の釣り糸… 衣ヶ浦の奇跡「心の釣り糸」

碧南の不思議な話

心の釣り糸 (こころのつりいと)

あの日の決断が悲劇となり 約50年前に衣ヶ浦の海で実際に起こった奇跡

港に並ぶ船

<「父親がなぜ船を出さなかったのか」その意味を知るには遅すぎた。突然の突風にマストは折れ、iwaoさんを直撃。海中へと沈んだiwaoさんを必死に捜すS氏。一隻、一隻と諦めていくなか、一途の望みを託した「釣り糸」に手応えが。叫びと共にiwaoさんは浮かび上がるのだが…> iwaoさんとS氏は、S氏の父親が船頭を務める漁船に乗って漁師をしていた。 S氏は、他の船が大漁にもかかわらず、自分の乗る船が漁獲を望めない事に不満を持っていた。父に対する不満でもあったらしい。 父親が出港を取りやめた朝に、S氏はiwaoさんを誘い、若い者だけで船を出してしまう。 漁は無事に終わり、鼻高々に帰港する途中に突然雲行きが怪しくなりだした。 強風が一瞬吹き抜け、「バギギッ!」と音がして帆を張るマストが折れてしまった。 船の後部にいたiwaoさんは、マストの直撃を受けて海中へと引きずり込まれる。S氏はここで「なぜ父親が船を出さなかったのか」知ることになる。 S氏は必死に探すが見つからず、自分たちではもう無理と悟り、大浜の港へと救援を頼んだ。 漁師達は大船団を組み、一帯を捜索するが発見できずに諦め、一隻、また一隻と帰っていった。 S氏の船だけが残った。諦めきれないS氏は、大きめの針に糸を付け、海底を引きずる。あり得ない奇跡を信じて何度も。 「iwaoやい、許してくれ…」とつぶやいたある時、手応えを感じだ。S氏は直感してiwaoさんだと悟り、糸が切れぬよう慎重に手繰り寄せた。 やはり、iwaoさんだった。だがiwaoさんは、もはや息をすることはなかった。

現場となった海域を臨む

<iwaoさんが亡くなって50年。しかし、それはS氏が自責の念に苦しみ続けてきた50年でもある。決して逃げずに毎年、50年間も盆と正月に手を合わせにやって来たS氏に海の男、大浜の男を見たような気がした> 私の叔父であるiwaoさんは、戦後まもなくに衣ヶ浦の海で亡くなった。21歳だった。 毎年、私の家には盆と正月に仏壇に手を合わせに来る人がいる。 いつもただ黙って手を合わせ、ただ静かに帰っていく、S氏。 ある年、S氏が遺影を前に「もう50年か…」と呟いた。今年でiwaoさんが亡くなって50年になるという。 そんな事は、iwaoさんの兄弟である私の父はおろか、他の叔父、叔母でさえ全く忘れていた。 いつもは静かに帰るS氏だが、その日は今まで語ることのなかった「あの日」を話してくれた。 それが先述の「心の釣り糸」の内容である。 「あの日から50年、毎年欠かさず」、人の命を軽んじる現在の風潮において、これほど律儀な人がいるだろうか。 私の祖母、つまりiwaoさんの母は近所でも気性の激しい人で知られていた。 きっとiwaoさんの亡くなった当時、S氏は想像しがたい程の罵声を浴びせられていたはずだ。 それでも逃げずに次の年も、また次の年も訪れて、50年。 その歴史は自責の念を背負い続けてきたS氏の50年でもあるのだ。私はS氏の背中に、海の男、大浜の男の姿を見たような気がした。

ヘボト自画像ヘボトの「街談巷説(がいだんこうせつ)」

赤煉瓦の旧冷蔵庫

「雨の日には…」

雨の日になると、私はあの話を思い出す。生前、母が子供の私に言い聞かしていた、ある港に関する話である。 その港には、修理を要する船を陸揚げするための入り江があった。港の奥にあることから、流れ着いたゴミが溜まることが多く、子供にとっては一種、宝探し的な遊びを楽しめる場でもあった。 コンクリートの防潮堤に囲まれ、入り口は4メートル程の鉄扉。普段は何の気なしに通り過ぎる場所で、母は雨の日になると絶対に横を向かなかった。 「雨の日には、真っ直ぐ前を見て、さっさと通り抜けなさい。何かを感じても横を見てはいけない」と私に言い聞かせた。 子供時分の私にはその理由が分からず、ただ母の怯えように不穏ならぬ空気を感じていた。 生涯、母からはその理由を聞くことはなかったが、後に人づてに聞くことになる。 「雨の日になると、いつも同じおばあさんがいた。ずぶ濡れであるけれど、雨に濡れたふうでもない。そして何より灰色の姿をしてた。悲しい顔をして、こっちを見ている…」と。

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