愛知県碧南市 「城山町」の地名には確かに根拠があった!「鷲塚城」は実在した

碧南の不思議な話

鷲塚城 (わしづかじょう)

「徳川家康」が築き「水野忠重」が護る 天正8年(1580)廃城となり消える

城山町から北を眺める

<わずか18年の短命に終わった鷲塚城。徳川家康が築き、水野忠重に守らせる。複雑に入り込んだ海岸線上に建ち、往来を監視。海上交通の盛んであった鷲塚の重要性を示す城である。今は「城山」という地名だけが残り、跡形もない> 鷲塚は古来、島であった。故に航路の要所として栄えた。蓮如上人が鷲塚に真宗寺(文政元年に土呂に移り、鷲塚山・本宗寺となる)を築いたのは、寛正5年(1464)のことである。 蓮如上人による真宗寺創建は、鷲塚の地が尾張からも容易に往来でき、利便性に適していたことをあらわす。 重要な地域である鷲塚を統治するために、永禄5年(1562)に徳川家康は鷲塚城を築く。城主は水野惣兵衛とした。 水野惣兵衛とは、刈谷城主・水野忠政の子である忠重のこと。兄・水野信元とは不和であったので、水野清信・水野太郎作・大塚八兵衛らと一緒に鷲塚にやって来た。 旭村誌(昭和5年発行)には、「地形東西二六〇間、南北二〇〇間、中央に入り込みたる低地ありて東西二つの岡あり、昔城主の居りしては東の岡なり」とある。 鷲塚城のあった場所は、現在の城山町。今では高低差はあれど、陸地となっているが、鷲塚城のあった時代は複雑な海岸線を持つ入り江であった。 高等線が表記されている碧南市地図などを見ると当時の海岸線を想像出来る。陸にも「切戸」と呼ばれる難所があり、まさに絶妙の場所に位置していた。 鷲塚城は水野忠重が去った後、天正8年(1580)に廃城となり、以後、この場所に再び、城や砦が築かれることはなかった。

畑の続く東側から大塚を見る

<かつて存在した鷲塚城と繋がる神有の応春寺。その山号は「大塚山」。往昔、碧南市立東中学校の南には「大塚」と呼ばれた場所があり、そこには高名な武士が葬られていた。今は住宅地へと変わり果て、塚であった面影はない> 鷲塚城と大塚の関係を忘れてはいけない。現在の碧南市立東中学校の敷地は、往昔「天目山」と呼ばれ、その南を「大塚」といった。 「大塚」の由来は、かつてここに高名な人物が葬られていたことによる。武士であるとのことだが、詳細は分かっていない。 水野惣兵衛(忠重)と共に鷲塚城のある現・城山に移り住んできた大塚八兵衛は、永禄8年(1565)に「大塚」に草庵を建て、「春応」として出家する。 後の応春寺である。大塚八兵衛が春応と名乗り、草庵を立てた理由のひとつには、共にやって来た水野清元が亡くなり、その霊を弔うためにと伝わる。 信徒の願いにより、この「大塚」から現在地に移ったのが寛永年間(1624~1644)。その時に名を「春応道場」と改めた。 延享3年(1746)には、寺号を受けて「大塚山・応春寺」となる。 現在、「大塚」と呼ばれた地は住宅地へと代わり、塚の面影はない。 また「大塚」の由来を知る人は、地元の人でさえもいなくなった。もはや古地図に旧字「大塚」として残すのみである。

ヘボト自画像ヘボトの「街談巷説(がいだんこうせつ)」

大浜宝珠寺の徳本稲荷

「大浜羽城」

碧南市内に存在した「城」には他に「大浜羽城」がある。天正6年(1576)、徳川家康は港を守る要塞として砦を築き、長田重元に守らせた。 また、その息子の永井直勝に守らせたという説も伝わる。もし本当なら、永井直勝は当時13歳になるが。 残された絵図によると、大浜羽城は東西五十間、南北六十間の規模で、海に面した西には、三間余の土手・堀が備えられてあった。天守閣ある城といったものではなく、文字通り砦であった。 場所は今の羽根町、もしくは音羽町ではないかと推測されるが、確かな証拠はない。ただ大浜・宝珠寺がかつて長田重元の屋敷であったことにより、その近辺ではないかということである。 実はこの大浜羽城が存在する以前に、「稲熊内膳」を城主とする城があったという。 こちらは「大浜古城」として区別されるが、どのような規模で何処にあったか等、詳細な記録は一切残っていない。

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