愛知県碧南市 「織田信長」の敗走は13の魂を迷わせた 「十三塚」は今どこに?

碧南の不思議な話

十三塚 (じゅうさんづか)

織田信長は惨敗 戦死者の魂が夜ごと彷徨う怪奇に大浜は騒然となる

両軍が衝突した道場山に大浜街道が通る

<織田信長にとって大浜での敗戦は苦い初陣の思い出。毎夜火の玉となり舞う無念。成仏出来ぬ武者達の魂は13の塚へと葬られた> 戦国時代、大浜攻略の機会を伺っていた織田信長は、大浜を守る長田重元が岡崎に出向くとの報を聞きつけ、 大浜・極楽寺(今の天王あたり)に向けて進軍。だが、織田信長の侵攻を事前に察知していた 長田重元は、天王の森に軍を忍ばせる。取り囲まれた織田信長軍と攻め立てる長田重元軍、今の道場山あたりで激しい戦いになった。 敗戦を悟った織田信長は、村に火を放ち、撤退する。戦場には、たくさんの死体が残された。 それから後、戦のあった場所で、赤い火の玉が夜ごと飛び交うのを見たという噂が村中に広がる。 長田重元が噂を聞きつけ、野ざらしになっていた死体を丁寧に葬り、塚を作る。 塚の数、13。いつしかその塚のある場所は”十三塚”と呼ばれるようになった。

付近にある避難場所の案内看板

<だまされてはいけない! 旧字一三塚は、区画整理前までは、「副十三塚」と呼ばれていた。本当の十三塚は現在の向陽町あたり、中央小学校・碧南高校のある一帯だったのである。明治後期の平和用水敷設に従う区画整理の際に十三塚は壊されてしまったという> そもそも「十三塚」とはいったい何なのか? 街道や村境に造られることが多く、民間信仰の一つだといわれるが未だその目的は謎のままである。 全国各地にも存在し、碧南市の十三塚と同じく戦死者を埋葬した話も多い。近隣では刈谷市にも十三塚という地名が今でも存在する。 昭和48年(1973)の町名制移行以前を知る人にとっては、「十三塚? ああっ、今の向陽町1丁目あたり…」と思い浮かべるかも知れない。 だが、それは真実ではない。周知の十三塚は、明治38年(1905)の平和用水敷設に従う区画整理以後に十三塚となり、以前は「副十三塚」と呼ばれていた。 本当の十三塚は、碧南高校のテニスコートから中央小学校にかけての一帯。そのどこかに十三の塚が存在したのだ。 明治43年(1910)発行の新川町誌に「東西一間、南北二十間、面積三十一坪、その間に十三点の高所があったので十三塚と…」の記述がある。 さらに区画整理工事の際、取り壊す事になり、注意深く掘り下げたが、戦死者の遺骨はおろか、何も出土しなかったとある。

ヘボト自画像ヘボトの「街談巷説(がいだんこうせつ)」

清浄院にある古い墓

「清浄院の五輪塔」

大浜・清浄院の山門と地蔵堂に閉ざされた場所にある五輪塔、由緒によると、 その五輪塔は鎌倉時代のもので前田利家の御先祖の墓だと伝わっている。 だか、一説によると、この織田信長軍と長田重元軍との戦いの戦死者ではないかと言われている。 清浄院には他に面白い話が伝わっている。本能寺の変で起こった動乱の最中、伊賀越えを果たして大浜へと到着した徳川家康を武士出身の清浄院・住職が鷲塚まで護衛し、 家康に「何者か」と問われ、「清浄院」と答えた。その御礼に清浄院は鷲塚に寺領を与えられたという。 また隣の本伝寺に前田利家・叔母の五輪塔が存在するというが、確認は取れていない。

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