愛知県碧南市 「碧南の不思議な話」東浦とお不動さんのつながりを探る

碧南の不思議な話

東浦のお不動さん

東浦から消えたお不動さんは饗庭に戻る 「東浦を守る」の言葉残して

姿はなくとも東浦の地を守る

<東浦の竹林から見つけだされたお不動さん。かつての大津波により流され、東浦の地に着く。再び饗庭に戻るが、お不動さんの東浦を思う気持ちは消えず> 東浦が海に面していた時代、今の東正寺の南にある竹林の下から一体のお不動さんが掘り出された。 村民達は、御堂を建て手厚く祀る。長い年月を経たある日、旅の途中の山伏が、東浦のお不動さんを背負い、持ち去る。 山伏が饗庭(あいば、現在の吉良町・三河荻原駅東一帯)に来た所で、山伏は動けなくなってしまった。 お不動さんが行方不明と東浦の村では大騒動。噂に”津波で流されたお不動さんが戻ってきたと饗庭では評判” と聞いた東浦の村人達は、饗庭に確かめに行く。噂のお不動さんは、東浦のお不動さんだった。 「元の場所(饗庭)に戻った。たとえ姿はなくとも、お不動さんはきっと東浦を守ってくださる」 と村人達は東浦に帰っていった。

日進ポケット広場

<文治2年(1186)に東正寺の南に存在した竹林から発見され、東浦の氏神となる。後に中根又左衛門の屋敷に祀られるが、再び東浦の人々によって祀られる。昭和26年(1951)に平七神明社跡に移転した> 「東浦のお不動さん」である不動尊が文治2年(1186)に発見された場所は、現在の東正寺の南にあった竹林とされる。 平七新田が開発されたのは、寛文3年(1663)である。東正寺住職の「山門の前を掘ると今でも貝殻が出る」のお話から、かつて東正寺の門前辺りが海岸線であり、津波により吉良・饗場から東浦に不動尊が流れ着いたという話も真実味がある。 発見された不動尊は、長らく東浦の氏神として祀られていたが、のちに平七村の名主「中根又左衛門」の屋敷に移る。 あくまで推測だが、慶応4年(1868)からの神仏分離令により、破棄されようとしていた不動尊を中根又左衛門が守ったのではないかと思う。 いわゆる「廃仏毀釈」の時代である。今日の「日進ポケット広場」として整備された三角地は、中根又左衛門屋敷の一部であり、不動尊が祀られていた場所。 昭和26年(1951)の区画整理の際に、不動尊は平七村の神明社跡に移され、今に至る。 さて、「民話では、お不動さんは饗場にあるのでは?」との疑問が浮かぶ。 旭村誌(昭和5年発行)には「安政年間一時仏像御絵図を盗むこと流行せり」とある。 だが真相を探ることは野暮ではあるまいか。 なにせ、暴れた雷神を怒鳴りつけた「東浦のお不動さん」なのだ。 ずっと東浦の人々とは魂で繋がっている。これから先も。

ヘボト自画像ヘボトの「街談巷説(がいだんこうせつ)」

伏見・観音堂の御堂

「伏見・観音堂の御堂は?」

「東浦のお不動さん」が現「日進ポケット広場」に祀られていた時代の御堂は、後に伏見・観音堂の御堂として転用されたとの話を耳にした。 話の信憑性はいかに? 早速、現地の伏見・観音堂へ向かう。狭い敷地に東を向いて建っている問題の御堂。 屋根には龍の装飾が施され、随分豪華である。しかしなんだか新しい感じがするのは気のせいか。 お不動さんのあった場所、「日進ポケット広場」からお不動さんが平七神明社跡に移転したのが、昭和26年(1951)。 お不動さん御堂移動説が正しいとするならば、もっと古くても良さそうなものだが。 もう一つの疑問点が御堂の大きさである。この伏見・観音堂の御堂が日進ポケット広場に存在したのならば、ギリギリの寸法である。 今ひとつ晴れない心を胸に伏見・観音堂の御堂を覗き込んでみる。暗闇に並ぶ観音さんを順に眺めている内に「あッ!」と声を上げてしまった。 あの恐ろしい形相は「お不動さん」である。真相は謎のままだが、これも何かの暗示だろうか?

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