愛知県碧南市 棚尾を囲む水路は環壕の跡か?水路に見る歴史ロマンを訪ねて
<かつて大部分を海に囲まれていた名残。丸い集落を集落をグルリと囲む堀川・水路。環壕としての役割を持ち、棚尾は要塞都市として機能しいていた?!> 棚尾の名の由来は、”丸い台地(棚)に尾が付いているような形”から。ちなみに尾に当たる部分は、当時、棚尾村の一部であった東浦である。 唯一の地続きであった東浦との往来道は、堀方地蔵脇の道と推測する。立地条件としては旭北部にある鷲塚と共通している。 独自の宗教・文化的発展を共に見せたという点においては面白い。現在でも、かつて棚尾の大部分が海に囲まれていた名残は残っている。 棚尾の集落をグルリと囲んでいる堀川・水路である。その一端である「堀切」は元和年間(1615~1624)に水路を築いた事が名の由来。 元々海であった低い土地を利用し、集落を守る環壕を造った…。棚尾は要塞都市として存在?と期待を膨らませてしまう。
<「今から戦争をしに行く!」と、かつての子供達は叫んだ。大浜と棚尾を隔てる源氏橋は、古来から続く因縁における境界線であり、最前線でもある。流れる堀川は通称「泣き川」と呼ばれ、先人達の人の良さを物語る> 大浜と棚尾の境に「源氏橋」がある。今でこそ友好関係にある大浜と棚尾だが、ほんの数十年以前は、互いにライバル意識剥き出しの犬猿の仲だった。 「子供の頃は、意気揚々と源氏橋を渡り、棚尾の子と喧嘩しに行った。あの時は…(略)」と、普段は上品な婦人が顔をしかめ罵る。 歴史を辿ってみると、事の発端は「塩浜事件」にあるようだ。明治4年(1871)、入会地であった塩浜の帰属と境界を巡り、大浜と棚尾で争いが起きた。 談合の末、江川を境に塩浜は分割されて事件は収まるが、以後、互いにしこりの残る事となる。 源氏橋の下を流れるのは堀川。改修時に村人に支払われる人夫代を元請けに持ち逃げされた事が何度もあり、 人々はこの堀川を「泣き川」と呼んだという。
堀川の流れは塩浜町2丁目にある堀川ポンプ場で2つに分かれ、左を行く流れを「江川」と呼ぶ。 昭和の終わり頃だろうか、小西橋から下流は埋め立てられてしまった。大浜・称名寺下から棚尾・八柱神社を結ぶ道に架かる「江川橋」は現在、橋があったという痕跡さえない。 かつての川跡を示すかの様に、南には榎の並木が続いている。「昔はここで海老をよう取っとった」と話すのは近辺で農業を営むご老人。 示す地面には、川岸にあった石垣が頭少しだけ出して、土に埋まっている。将来的には、丸山橋・水門橋と碧南を縦に貫く主要道を国道247号線へ接続させる為に江川全域を埋め立てるという。
< text • photo by heboto >