愛知県碧南市 「幻灯機」を用いて説法をした住職がいた 「光輪寺」を訪ねてみる
<城を想像させる黒板塀と山門の全体像。明治4年(1871)の「鷲塚騒動」では襲撃の危機に瀕した。光輪寺の歴代住職には行動的な人物多し。写真・野球チーム・幼稚園などにチャレンジ。現在の本堂は文政9年(1826)に建立> 八柱神社から来る旧道が棚尾本通りと交わる地点「毘沙門」交差点南西角に位置する「解脱山・光輪寺」。 強固に組まれた石垣を持つ黒板塀が囲い、本瓦葺きの山門には鯱が踊る様は、威風たる城の雰囲気を思わせる。 明治4年(1871)に起きた「鷲塚騒動」の際、当時の住職であった「高木賢立」の教論使としての活動が菊間藩「服部純」の推進する寺院統合に協力したとして誤解され、光輪寺は暴徒による襲撃の危機に瀕した。結局、鷲塚の赤禿にて暴徒は鎮圧されるが、城塞を思わせる外観はその時の教訓によるものか。 光輪寺の歴代住職は往々にしてチャレンジ精神旺盛な人物が多く、中でも高木晃敬は写真を学び、幻灯機による説法を各地で行った。 今日残る明治25年(1892)撮影のからかさ松・大浜湊橋等は、高木晃敬の手によるものである。 また碧南最初(明治末期)の野球チーム「弥生倶楽部」に高木真敬が参加したという。
<光輪寺を囲む築塀に注目。山門近くにある石垣の一部には「獅子のレリーフ」がはめ込まれていた。さらに山門横に中近東を思わせる石造りの通用門が存在。やはりこの光輪寺は並の寺院ではない何かが隠されている!?> 日本国の歴史において、ことに建造物に関しては木造建築が主であり、他の国で発達した石造りの建造物は類い希なる存在である。 だがこの光輪寺では、日本国の建築史観とは異なる文化が生まれていたようである。 光輪寺を囲む黒板塀石垣の一部にはめ込まれた「獅子のレリーフ」。幅64センチ、高さ41センチ、毬で遊ぶ獅子の姿…。何か物語を伝えている風でもある。 また山門右にある石造りの通用門。アーチ部は7つの石を均等に使い、左右対称の素晴らしい形。開口部は高さ110センチ、幅88センチ、随分体を縮めて入る事になる。 石門と獅子のレリーフが表す意味は一体何なのか?ぜひ現地に赴いてこの謎を解き明かして頂きたい。
光輪寺(こうりんじ) 天台宗「棚尾総道場」と呼ばれ、応仁2年(1468)に蓮如上人が三河巡行の際、浄土真宗へ改宗する。 その後、寛文年間(1661~1673)に吉浜(高浜市)の安藤氏が出家、道場を再興し開基となる。 貞享4年(1687)、現在のご本尊・阿弥陀如来立像を安置。このご本尊は昭和50年(1975)に碧南市指定文化財となっている。 元禄15年(1702)に解脱山・光輪寺と名乗る。
光輪寺にも実は経堂がある。山門入って左手、カイズカイブキの後ろに北を入口としてたっている。 この経堂は今から130年ほど前に「筆庄」(ふでしょう)という一人の人物の寄進により建てられたという。 鳥居のようにも見える入口の窓から内部を覗くと、多角形の輪蔵が両脇の花頭窓から差し込んだ光により浮かび上がる。 貞照院の輪蔵に見られるような装飾は一切無く、おそらく檜と思われる木肌が露出する簡素な造りの輪蔵である。 内部に経典が収まっているはずだが、貞照院のように虫干し供養はするのだろうか。 美しい宝形造りの経堂をたった一人の寄進で造り上げた筆庄なる人物、謎である。
< text • photo by heboto >