愛知県碧南市 医師「森逸勝」の屋敷門と赤煉瓦の参道 「西光寺」を訪ねる
<大浜・西方寺と繋がりある西光寺。森逸勝の屋敷門であった山門を潜り、赤煉瓦の参道を行く。樹齢200年近い銀杏が迎え、本堂内の欄間には鶴と亀> 新川5差路、下から見て左2番目の道を選び、坂を駆け上がれば左にある寺、真宗大谷派の「鶴淋山・西光寺」である。 寛延2年(1749)6月に創建。大浜・西方寺三十代住職、清澤慈慶師の実弟である清澤慈恩を開基とする。 質実剛健を思わせる山門は、嘉永年間(1848~1854)に二本木で眼科を開いた森逸勝の屋敷門を移築したもの。 赤煉瓦の敷き詰められた参道を行けば、右手に銀杏の大木がある。本堂を再建した天保6年(1835)に植えられたという。 本堂を覗けば、キラキラと光る欄間の「鶴と亀」。内陣に鎮座する本尊・阿弥陀如来像の放射光が輝いている。
<古い街並み残る本町通り。鶴ヶ崎の立地を示すかのように、稜線に沿う形でに軌跡を描く。明治の時代には通りにガス灯の明かりが灯された歴史。新川の発展と共に栄えた本通り、東の銀座通りに賑わいを譲った後に品のある雰囲気だけが今に残った> 新川・鶴ヶ崎は高い台地上に形成された街。その中心、山の稜線を走るような道。 大浜街道ではあるが、地元新川では本町通りと呼ぶ。その本町通りから左右にのびる支線は全て下りの道となっていることからも鶴ヶ崎の立地をうかがえよう。 本郷である大浜に追いつき追い越せと、明治の時代に飛躍的な発展を見せた新川。明治35年(1902)には、本町通りにガス灯が数十基建てられ、華やかな景観を見せていたという。 本町通りを歩けば古いコンクリの建物「朝日堂印刷」は明治28年(1895)創業の老舗。 仄かに薫るお茶の優しげな雰囲気「はやしや茶舗」。少し道を入れば、昔のお医者さん建物そのままに「杉浦医院」のノスタルジックな様式美。 先人達が忙しく行き来した時代に想いを馳せ、歩きたい。
西光寺(さいこうじ) 大浜にある西方寺の第30代住職「清澤慈慶」の弟、「慈恩」が寛延2年(1749)6月に鶴ヶ崎で講堂を開く。 文政10年(1827)に本山から寺号を許可され、西方寺の一文字を取って「鶴林山・西光寺」とする。 現在の本堂は天保年間(1830~1844)の再建。本尊・阿弥陀如来立像は天保7年(1836)に本山からもらい受ける。
産業道路を南下すると、いつも気になる建物が見える。浅間神社の森にチラチラと見える古い西洋館。 三角屋根を持ち、壁は古い煉瓦が凹凸をつくり、大きな窓が2つあるという西洋風の建築物である。 新川を案内するパンプレットにはよく登場するが、どれも「古い洋館」とだけ記され、由緒・年代などは伝えていない。 浅間神社境内で孫を連れて遊ぶ御婦人に声を掛けた。「私が子供の頃からあるけどねえ…」と語るのみ。 別の人に聞いても同じ答えだった。「どなたかの別荘ですか?」と尋ねるが、さっぱりとして返答はなし。本当に誰も知らないらしい。 海が埋め立てられる以前は、海岸に面し素晴らしい景観を見せていただろう西洋館。 一体、どんな人が住んでいたのだろうと期待は膨らむのである。
< text • photo by heboto >