愛知県碧南市 徳川家康の伝承に由来「麦えまし」の愉しみ 「浅間神社」を訪ねる
<天正10年(1582)6月2日の朝に「本能寺の変」の報を聞きつけた徳川家康。一路、大浜をめざす道中、松江の浜から辿り歩いた徳川家康は空腹に耐えかね、農民から差し出された「麦えまし」を浅間神社で食べたという伝承。今も続く「朝えまし」の風習はこの出来事から始まったもの> 新川橋から北へと向かえば、五差路あり。左から2番目道を行く。 ここは既に鶴ヶ崎の地。急な坂道、途中には学生御用達の店「一茶」の暖簾。秋の祭礼にはこの坂道を鶴ヶ崎の山車が勇壮な勢いで駆けあがる。 登りきった先はカーブとなり鶴ヶ崎の本町通となる。その入口に立つ石柱、後ろは民家の間を抜ける急な下り坂となり、先に鳥居が見える。 広い境内に小山1つ。20段の急な石段を上れば、「浅間神社」の社である。かつては離れた磯であったと推測する景観。 寛文9年(1669)2月に吉左衛門家次が神主となり創建したと伝えられるが、それ以前にも小さな社が存在していたという。 この浅間神社には「朝えまし」という風習があり、伊賀越えを果たした徳川家康がここで麦えましを食べた話に由来する。 当時、徳川家康に麦えましを差し出した農民は西光寺付近に住んでいた「池端7軒」と呼ばれる人達であるという。 あいにく降り出した雨、頂にある浅間神社の社で雨宿りをすれば、当時の徳川家康の心情に自分を重ねてみる。
<新川を発展させた豪商・岡本八右衛門の船に乗る船員のための宿として始まった「鶴州樓」。新川を訪れた著名人の多くが宿泊するほどの高級旅館として名を轟かせたが、海の消失と共にいつしか消え、今は面影さえない> 浅間神社の東にある道を行けば、古い屋敷がいくつも見える。その古い屋敷と屋敷の軒先の重なりにある小道を行けば、ノスタルジックな趣向を満足させる世界が存在。 鶴ヶ崎の本通りを中心に形成された集落の構造は、家々に立派な石垣をもたらした。空き地となる場所にもその石垣だけは残され、「どんな屋敷が立っていたのだろう」と想像を膨らませる。 浅間神社の東にかつて「鶴州樓」という高級旅館があった。鶴ヶ崎の豪商・岡本八右衛門が経営した海運会社の船員が宿泊する場として始まったといわれ、対岸の亀崎にある旅館「望洲楼」にちなんで名が付けられた。 入口は大浜街道である本町通りに面し、新川を訪れた著名人・財界人の多くが宿泊したという格式の高い旅館であった。 いつしか時代は昭和へと変わり、浅間神社裏の海の埋め立てられ、今はその面影さえなく「鶴州樓」は消えてしまった。
朝えまし(あさえまし) 毎年7月の第2日曜日に麦えましを朝5時より配り、夏の無病を願う祭事「朝えまし」が浅間神社に伝わる。 元となった話は長くこの地に伝承され、碧南の民話にもなっている。 天正10年(1582)の「本能寺の変」により、堺から逃げる徳川家康が松江の浜に辿り着き、浜沿いを大浜羽城へ向かっていた。 途中、徳川家康は空腹に絶えきれず、家来に命じて食料を探させる。付近に住んでいた農民達が用意出来たのは、麦を煮て干した「麦えまし」という粗末な食べ物。 農民達は恐る恐る差し出すが、徳川家康と家来達は美味そうに麦えましを食べた。後日、徳川家康は満足な食べ物がない農民達を不憫に思い、米俵を送った。 感激した農民達は徳川家康が麦えましを食べた浅間神社に毎年、麦えましを供えることにしたという。 現在、その農民の子孫たちは今も「池端7軒」と呼ばれている。
祇園祭として毎年7月の初旬に浅間神社の境内で鶴ヶ崎区主催による「こども・すもう大会」が開かれる。 東と西に分かれ、小学校低学年までの子供達が勝ち抜き戦を行う。 勝つ度に景品が貰え、名勝負には区長賞などが贈られる。 負けて泣く子供になだめる親、テントの下では観覧する大人達がビールを片手に微酔い気分。 最初は要領を得ない子供も、後半戦には白熱した勝負を繰り広げる。 「オォー」という歓声に、3人抜きした子供達は実にクールな表情。 今の時代を反映してか、男子より女子の方が強い。子供にとっては初めての地域社会への参加、親にとっては子供の成長を実感するイベントである。
< text • photo by heboto >