愛知県碧南市 土剥き出しの築塀にみる歴史 もとは道場山に「精界寺」あり
<道場山時代は”清海寺”といい、大永元年(1521)に創建。大浜・称名寺の隠居寺となっていた。現在地に移ったのは貞享3年(1686)。この時、時宗から浄土真宗へ改宗。土が露出する築塀がなんとも趣がある精界寺> 水門橋からの旧道が東山交差点に差し掛かる手前にある「道場山・精界寺」。山号が表す通り、この精界寺はかつて道場山の地にあり、名を清海寺といった。 大永元年(1521)、佐々木源華が道場山の西海岸に流れついた仏像を見つけ、安置した道場を開いたから精界寺の歴史は始まる。 今日の「道場山」は佐々木源華が建てた道場に由来する地名である。貞享3年(1686)に浜尾へ移転して以来、長きに渡り人々の信仰を集めてきた。 この精界寺を特徴づけるのは土剥き出しの築塀と、大名の城のように襖が並べられた本堂である。 近年、半分近くを補修し白壁となったことは実に残念だが、構造材となる瓦がつくる紋様に美しさを見出す築塀である。 ガラス戸から覗く本堂内は、簡素だが威厳を放つ大きさの襖で全て閉じられるという不思議な景観。
<遊行上人が来寺した際、詠んだ歌を刻んだとされる石柱は、時宗・称名寺との有縁を物語る。墓地にある「元帥墓」は新川青年角道会の創始者の墓> 山門から本堂へ行くには、幅5メートルのコンクリート坂を20メートル進む。 乳母車でも容易に本堂へと行ける構造は、「バリヤフリー」が叫ばれる遙か以前からのもの。 他の寺院とは趣を異す精界寺。境内を見渡せば、まだまだ興味を惹くものが存在している。 境内にある高さ190センチの石柱。何か刻まれているようにも見えるが、解読不可能。 これは遊行上人が精界寺に来た時に詠んだ歌を刻んだものといわれている。 遊行上人とは一所不定の生活を送り、各地で念仏踊りを勧める僧、または時宗の開祖、一遍とその弟子、真教を示す。 精界寺は貞享3年(1686)に道場山から移るまで時宗の寺であり、大浜・称名寺とも関係が深かった。 墓地には人造石発明者「服部長七翁」の碑があるが、ここでは「元帥墓」を推したい。 昭和8年(1933)12月に有志によって建立された新川青年角道会創始者「岡本巳之助」の墓である。 「元帥」とは、東郷元帥と共に戦艦「三笠」に乗船していた事から付けられた「あだ名」。 新川角道会が昭和4年(1929)8月に創立され、岡本巳之助はその2、3年後に亡くなった。 仲間達は昭和8年(1933)9月17日に追悼の相撲を新川キネマの北にあった空き地で興行し、収益金で岡本巳之助の墓を建てたのである。 「元帥墓」と刻まれた墓を眺めれば、岡本巳之助と仲間達の和気あいあいとした当時の雰囲気が浮かんでくる。
精界寺(せいかいじ) 近江出身で大浜称名寺・其阿上人の弟子であった佐々木源華は、大永元年(1521)に海岸へ流れついた仏像を見つける。 佐々木源華は、海岸近くに道場を築き、仏像を安置する。仏像には「清海寺」と書かれてあったことから、道場を「宝樹山・清海寺」とした。 時宗の寺であり、称名寺の隠居寺として7代まで続いた。貞享3年(1686)、8代目の利慶上人の時に現在地へ移転、浄土真宗へと改宗し、「道場山・精界寺」とあらためた。 新川橋の南に現在ある「道場山」の地名は、佐々木源華が建てた道場があったことから付いたものである。
碧南辻と西端へと向かう旧道が出合う「東山」交差点の角に小さな社がある。 明記されるべき名称はなく、屋根にある紋章により、「秋葉社」だということが分かる。 昔、この秋葉社のある場所は主要道が交差することもあり、まるで祭の賑わいのごとく人で混み合ったという。 子供達はよく迷子になったそうだ。西端へ向かう道が旧道となった為、往時の賑わいは今はない。 さて、そんな場所にある秋葉社である。細かく見ていくとその魅力に気付かされる。 美しくも重厚な屋根には天狗と烏天狗が向かい合い、向拝に獅子と象、虹梁に兎と賑やかである。 小さくとも実に丁寧に造ってある。ヒマワリ咲く傍らに鎮座するお地蔵さんにも注目。可愛い形をしているが、「右・西尾 左・安城」と道標の役割を果たしている。
< text • photo by heboto >