愛知県碧南市 謎の石柱に刻まれた文字を読み解く 隠された史実が明らかに?
<古い民家の軒下とトタン塀の間に高さ176センチの石柱。「大浜熊野大神社」へと導く道標の役目を担うものか? 「跡」という文字はかつてこの地に存在した何かを示す> 碧南・半田間を結ぶ衣浦海底トンネルが東へと向かう国道247号線。かつては青果商、さらに溯れば「松竹温泉」という銭湯があった場所から南へと下る道。 幅員は僅か車一台が通れる程。軒を重ねる家々には、いわゆる長屋門形式という中庭を囲むものが多く見受けられる。 小さなお地蔵さんが家壁に鎮座している地点から、7メートル程、道をいったあたりに奇妙な石柱を発見した。 古い民家の軒先と敷地を隔てるトタン塀の僅かな空間に存在し、176センチ高、「大濱熊野大神社」と刻まれている。さらに「菓北神門 ○跡」の文字。 ○部分は旧漢字で私の知識では判読出来なかった。「熊野権現宮」から「大濱熊野大神社」と改称されたのは、明治39年(1905)8月10日。 ”跡”とは、以前この場所に鳥居等が存在していたということか?ここから神社までは、直線にして約950メートル。不可解である。
<辻に現れる名も無き御堂。内部には88体プラス1の弘法座像と中央に立つ地蔵像。台座に刻まれる「安政二年卯十一月八日 鷲塚・榊原治平寄付」の文字は何を物語るのか?道の先に存在した「三ノ寮」は称名寺に関係> 神社の道標が示した道を南下すると、辻があり、そこには1つの御堂がたっていた。 もともとこの道は、先述通り、大浜・称名寺門前から発端となる。その意味は何か? 辻にある御堂に名はない。いつの頃より建立され、由緒は何かも不明。 御堂内部を覗けば、4列11段が2組、幅12センチ・高さ17センチの弘法さん座像が計88体も鎮座している。 さらに中央には立像のお地蔵さん、天上に一体の弘法さん。お地蔵さんの台座には「安政二年卯十一月八日 鷲塚・榊原治平寄付」とある。 安政2年(1855)頃といえば、前年に起きた安政の大地震からはじまり、コレラの流行や洪水など不安な世情が続いた時期。 この御堂の向かって左の小道を行けば、またひとつ御堂。こちらには名があり、「浜田地蔵」という。 道先にある伊勢町の一部は、旧字名「三ノ寮」と呼ばれた地帯。大浜・称名寺にまつわる何らかの施設が存在したと伝承されている。
あなたには、子供の頃に早起きをしてお菓子を貰いに弘法さんの御堂をまわった想い出はないだろうか。 近年、再び地域の祭として盛況を見せ始める「地蔵祭」に比べ、「弘法さん」を行う所は少なくなった。 「弘法さん」と親しみを込めて呼ばれる行事は、弘法大師の命日にお勤めを行い、子供達へお下がりを配る催しを示す。 旧暦の3月21日が命日で、新暦では4月の後半に当たる。弘法大師は真言宗の祖、「空海」の別名であり、偏照金剛ともいう。 宝亀5年(774)6月15日に四国・讃岐に生まれ、数々の伝説を各地に残した人物。 そんな偉大な人であったとは露知らずに、ただお菓子が貰えることを喜んだ子どもの頃の私。 もう一度、童心に返って「弘法さん」の日には、お参りしてみてはいかがだろうか。
< text • photo by heboto >