愛知県碧南市 徳川家康の幼名「竹千代」は「称名寺」で催された連歌の会から
<歴応2年(1339)に創建した称名寺。徳川家康の幼名「竹千代」命名の寺として有名。松平家との関係は嘉吉元年(1441)に父・有親と息子・親氏が滞在したことに始まる> 湊橋から南下する道を行く。「築山」と呼ばれた小高い地に所在する「時宗 東照山 称名寺」に辿り着く。 大浜随一の名刹であり、徳川家康の幼名「竹千代」と称名寺には深い関わりがある。 天文12年(1543)2月にこの称名寺で「夢想之連歌」が催された際に、発句の「神々のなかかきうき世を守るかな」に対して、松平広忠の脇句「めくりはひろき園のちよ竹」と詠んだ。 その脇句から、時の住職である第十五世一天和尚が幼名「竹千代」を献上した。 この連歌会で使用した文台・硯箱および連歌の書は碧南市文化財となっており、大切に保存されている。 称名寺境内には松平家の御霊を祀る「三州大浜 東照宮」、そして「渡宋天満宮」と「秋葉社・津島社」がある。 本来の入り口である南の山門は、美しい下降線を見せる屋根を持ち、脇の筋塀は万治3年(1660)5月25日に妙法院御門跡より寄付されたものである。
<大浜・称名寺を訪れれば、何故か自らも笑顔となる。六地蔵に癒され、銀杏の切り株をそっと覗き見る。松平家6代・信忠が没した称名寺で伝承される人物像をあらためて問う> 松平家6代目にあたる松平信忠は、享禄4年(1531)7月27日に42歳でこの称名寺で没する。 人望薄く、残忍な性格であったとされる松平信忠。早々と家督を譲る事となり、大永3年(1523)に称名寺へ隠居した。 はたして本当に性悪な人物だったのだろうか? 称名寺を巡り、ある不思議なことに気づく。 北東にある墓地の六地蔵は皆、微笑みを湛えた表情。新しくできた墓地の六地蔵もまたしかり。 極めつけは、本堂東の収蔵庫脇の銀杏。収蔵庫建造の際、切り倒される運命にあったが、人々の願いにより、屋根に掛かる枝のみを切断することで事なきを得た。 ところが、切り株に「人の顔」が浮かび出たのである。それも満面の笑みを湛えた表情を従ってである。 当時は話題となり、切り株の顔を拝む人も現れた。単なる偶然かも知れないが、称名寺には確かに笑顔、そして微笑みがある。 永正9年(1512)2月1日、松平信忠は永正3年(1506)以来の戦死者を弔うために毎月16日に念佛踊りを催すようにと、田地五反歩を寄進した。 微笑みと松平信忠に直接関係はない。だが、この称名寺で没した松平信忠は決して伝承通りの人物には思えないのである。
称名寺(しょうみょうじ) 歴応2年(1339)に近衛家領志貴荘大浜郷政所・正阿が創建する。開基は遊行派二世他阿真敬の真弟子、「声阿弥陀仏」である。 後に和田一族の二世・釈阿弥陀仏、三世・眼阿弥陀仏が入寺し、延文4年(1359)には二一間四面の本堂が建立された。 戦国時代になると、松平親氏が父・有親、従者・石川孫三郎と共に称名寺に移り住む。 天文12年(1542)2月に称名寺で行われた連歌の会により、徳川家康の幼名「竹千代」がつけられた事は有名である。
遠い昔の大浜八景のひとつ、「東照千鐘」と謳われた称名寺の鐘楼。 その東に「収蔵庫」と金文字の額が掲げられる白い御堂。普段は小豆色の鉄扉に阻まれ、内部をうかがい知ることは出来ない。 祭礼や法要が営まれた際のみに姿を拝める聖観音菩薩像。昭和32年(1957)1月12日に県指定有形文化財となり、 松平信忠の娘、「東姫」が生涯の守り本尊とした由緒を持つ。高さ159センチ、桧の一本造りで平安中期、恵心僧都の作とされ、もとは尾張の甚目寺の持仏であったが、称名寺6世「春登」の霊夢により当寺へ迎えられる。 東姫は剃髪し、尼僧「東一房」として称名寺に閉居し、元亀元年(1570)10月11日に逝去した人物。 称名寺境内にある「徳川家祖廟」には東姫である東一房の墓がある。
< text • photo by heboto >