愛知県碧南市 大浜に生まれたならば「海に生きる」と覚悟を決める「大浜港」

大浜南部へようこそ!

大浜港 (おおはまこう)

「問丸(といまる)」の時代から 寡黙に働く漁師達の姿に伝わる緊張感

夕暮れに船が並ぶ

<大浜港である。九重味淋の御先祖、「石川八郎右衛門」が寛永5年(1628)に堀川を開削し、河口付近を整備したことにより、大浜の港はさらなる発展を見せた。ブレジャーボート並ぶ新川港とは対照的に大浜港は漁船がズラリと並ぶ> 堀川下流の南岸一体は大浜港である。応永年間(1394~1428)頃から木材の集散地として、「問丸」(といまる・輸送、倉庫保管、卸売りを行う業者)まであった大浜湊。 寛永5年(1628)に「石川八郎右衛門」が堀川を開削し、港を整えた事で、三河五ヶ所湊に定められる程、大きく発展した。 明治の時代になると、新川港に取扱高で抜かれ、次第に大浜港は漁港としての色合いを深めていく。 漁船のズラリ並ぶ姿は実に壮観。正月には大漁旗がはためき、年始の風物となっている。

真っ赤なホースがとぐろを巻く

<漁業とは、船底一枚が生死を分ける厳しい世界。昔ながらの緩やかな雰囲気をどこか残す東岸とは違い、西岸には緊迫した空気が漂う。ここは漁業を生業とする者達の「仕事場」であり、部外者が安易に近づける場ではない> 漁業とは実に厳しい世界だ。海という存在は人間の甘えを決して許さない。 「船底の下には死が待っている」と形容され、一瞬の判断ミスが生死を分ける。 大正期に建てられた赤煉瓦冷凍庫のある旧来の大浜港・東岸に対して、西岸は臨海工業地域造成の際、埋め立てられて出来た。 「構内関係者以外立ち入り禁止」の警告が随所に現れる大浜港・西岸。昔ながらの漁港といった空気を残す大浜港・東岸に比べ、 西岸には緊張感が漂う。漁師町である大浜は今もしっかり生きている。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

本堂と西門

「観音寺」

大浜港の東、「魔除け地蔵尊」の赤い旗が並ぶ通りをあるく。趣ある「祢宜田鍼灸院」の並びにあるのが「観音寺」である。 大浜の地元民は親しみを込めて「大竹観音さん」と呼ぶ。 昭和30年(1955)創建という、大浜界隈では比較的新しい部類に入る寺院だが、由緒が面白い。 日露戦争当時、大竹常三郎さんが代々伝わる身の丈一寸の「小豆観音」を戦地に赴く。 激戦の最中、何度も命を救われ、御仏のご加護と悟る。その後、御利益を自分だけのものとせず、広く人々にもとの思いより一字を開いたのが観音寺の始まりである。 別堂である水子観音堂もぜひ訪れて欲しい。堂内壁一面の人形は凄い。

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