愛知県碧南市 渡船の権利を巡る因縁の歴史も今は昔 平成5年に新しく「中畑橋」

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中畑橋 (なかばたばし)

渡船を巡る抗争の歴史 先代の面影は残され 橋上からの眺めも絶景なり

矢作川に架かる中畑橋

<碧南の伏見と西尾市の中畑を繋ぐ中畑橋。渡船の権利を巡る争いは、文政11年(1831)から激化し、「河原州ヶ鼻渡船紛争」と呼ばれ暴行沙汰まで発展する。明治36年(1903)、中畑村が橋を架けた事が今日の中畑橋の始まり> 県道・平坂福清水線に架かる現在の中畑橋は平成5年(1993)3月に完工した橋。全長341メートル・幅員14メートルという規模のトラス橋。 遠くに鉄橋や夜には発電所の美しい景観が眺めらる絶景ポイントのひとつであり、橋の往来時には楽しい気分にさせてくれる。 中畑橋が最初に架けられたのは明治36(1903)で、当時は一回2銭という有料橋であり、橋桁に板を並べただけという粗末な造りであったようだ。 それ以前の時代には、流作(伏見屋外新田)と中畑の間に渡船が存在した。この渡船には、権利を巡って流作と中畑が約30年も争い、暴行沙汰を起こした歴史がある。 この争いを「河原州ヶ鼻渡船紛争」(からすがはなとせんふんそう)という。

さかなのモザイクタイル

<中畑橋の真下に残される遺跡…? 巨石群が意味ありげに並べられ、川の流れを模倣したモザイクタイルには、黒と赤の魚が泳ぐ姿。生い茂る川辺に突如として現れる光景に散歩する人もビックリ!?> 矢作川の堤防を気持ち良く散歩していると、遠くに奇妙な石が並ぶ姿が見えた。 足元を見るとモザイクタイル…無尽に生える雑草は、いつしか一つの道を作り、その巨石群のある場所へと導いている。 モザイクタイルの道は、川と泳ぐ赤と黒の巨魚を表しており、後に川のモザイクは長さ約30メートル、幅150センチの規模、巨魚は合計18匹である事を確認した。 中畑橋の真下に差し掛かる場所に巨石群が現れる。 1メートル超の巨石が真っ二つに裁断され、切り口は鏡面のように輝きを放つ。4・10・16という組の半円、配列の意味は何か。 廃線の鉄橋と巨大な火力発電所を遠くに見、忘れ去られた遺物のように存在する実に不思議な空間である。

二宮金次郎さんの陰歴史に関するミニ知識

河原州ヶ鼻渡船紛争(からすがはなとせんふんそう) 伏見屋新田・伏見屋外新田と対岸の中畑(西尾市)との間にあった渡船の権利を巡る争い。 勝助事件、文兵衛女房事件など暴力沙汰に発展した事件を含む。”河原州ヶ鼻”とは中畑の船着き場の名前。 延享3年(1746)、伏見屋外新田の藤次郎が中畑村・小作人の六左衛門に渡し守をさせ、宝暦12年(1762)に中畑村の嘉七が渡し守を専業とする。 利用者が多くなり、利益拡大が見込めると分かると渡船権利を巡って争いが起こる。伏見屋外新田側は大浜役所に、中畑村側は西尾藩に訴え、30年間も争うこととなる。 万延2年(1861)に江戸評定所の判断により、双方から船を出して利益は分ける事で決着した。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

幅員が狭くなる予告標識

「昔の中畑橋」

先代の中畑橋は昭和10年(1935)12月に出来た永久橋で、薄水色のポニートラス橋という美しい構造。 現在の中畑橋より上流300メートルの位置、道場山からくる旧道から対岸中畑の酒屋前に出るというルート。 しかし、幅員が4.5メートルしかなく、長さが340メートルある為、対向車によっては長く待たねばならなかった。 どちらに優先権があるかといった争いも多く、免許取り立ての運転者にとっては、通行したくない橋だった事を憶えている。 かつて渡船を巡る争いが起き、永久橋が出来ても通行順を巡る争いという歴史を持つ中畑橋。 平成5年(1993)に出来た現在の橋に新たな争いが起こらぬ事を願う。

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