愛知県碧南市 西方寺の西に海がある 「新浜寺海水浴場」は昭和初年に開設
<大浜「浜寺町」の西に昭和初年頃、新浜寺海水浴場が開かれる。地元の人々が利用した静かな海水浴場で、夏には大浜小学校の水泳訓練が行われた。かつての大浜港でもある海岸線跡である道を歩けば『九重味淋』。御先祖は堀川を開削し、大浜を発展させた「石川八郎右衛門」> 大浜街道の起点、「港橋北」交差点から堀川の右岸に沿って西へ行く。 堤防の壁に差し掛かり、鉤の手状に曲がる辺りから、北へと向かう道が現れる。 この道こそ、海岸線の跡で「新浜寺海水浴場」であった場所。『九重味淋』の2代目「石川八郎治」が大阪「浜寺」の海岸線に似ていたことから「新浜寺」と命名した海水浴場である。 昭和初年に開かれ、新須磨海水浴場と玉津浦海水浴場という2大海水浴場に挟まれた立地であるため、遠来からの観光客よりも地元の人々が主に利用した。 夏に大浜小学校の水泳運動会が行われたと思い出を語る人も多い。 今でこそ大浜港といえば、堀川河口の左岸一帯の港である。だが、本来は新浜寺海水浴場となる海岸線が大浜港であった。 寛永5年(1628)、石川八郎右衛門が堀川を開削したことにより、多くの荷揚げ場が出来る。海運に適した条件を揃えたことで、大浜港は大きく発展する。 海岸線跡である道を行けば、安永元年(1772)に創業した『九重味淋』の本社工場が見えてくる。 海があった時代、専用の船着き場を有していた。着岸した船に板を渡して樽を運び込む光景を見られたという。
<旧字名「浜家(はまけ)」と呼ばれた集落は、確かに海の匂いがした。軒先の間に挟まれ、意識してしまうほどに幅の狭い道が、かつての海岸線へと向かう。アスファルトに浮いた白砂を踏みしめる度に蘇る記憶。海を失うと同時に忘れてしまった「大浜の港町風情」が未だ生き続く場所がある> 明応5年(1496)、第15世・念法は、それまで棚尾の八柱神社北にあった「光照寺」を大浜の地に移し、寺院名を「西方寺」と改めた。 のちに宗教哲学者「清澤満之」によって全国的に名を知られる西方寺は、碧南市の浜寺町にある。 その西方寺の西南に昔ながらの集落。元禄11年(1698)の大濱村絵図には、集落を南北に貫く通り沿いに8軒の家。 昭和48年(1973)から始まる新町名制移行以前には、この集落一帯は「浜家(はまけ)」と呼ばれていた。 「浜辺に家が建ち並んでいたから、浜家だろうか?」、そんなことを考えながら集落を歩いてみる。 南北を走る通りには、いくつかの細い道がのびる。交互に繋がるべき道も微妙に位置をずらして、”曲がり”の様相をみせている。 かつての海岸線である西へと向かう小道は、どれも幅が狭くて人がすれ違うにも、身構えてしまう程だ。 何よりこの集落で感じるのは、海の匂い、漁村の風情である。アスファルトで舗装されているとはいえ、道には砂が浮き出、懐かしい貝殻片の散らばりも見つけた。 日なたの匂いと潮の香りと緩やかな時間が入り交じり、遠い昔になくなってしまった大浜の姿を垣間見る。「浜家」と呼ばれた雰囲気は今も消えずに残っている。
新浜で荒海水浴場跡を歩くと1つの社を見つける。ドングリを装飾に使ったオブジェが出迎えてくれる浜家の「津島社」だ。 昔、浜家の漁師が集落の西海岸に流れついた津島神社の札を見つけた。 何度押し返しても戻ってくるので、小さな祠を建てて祀る。 それから豊漁となることが多く、漁師仲間も連れだって厚く信仰するようになった。それがこの津島社の由緒である。 現在は浜家の漁師も減り、浜家町内で管理しているという。唯一の鳥居は昭和3年(1928)の建立。境内の規模に合わせとても小さい。 その鳥居が建立されて頃は、ちょうど新浜家海水浴場が開かれた時代である。 鳥居は、潮風に洗われた感のある荒れた表面。間近に海が存在していたことを物語る。 波に乗って浜家にやってきた神様である。今は漁師が減り、かつての神力も発揮する機会は少ない。 ぜひとも訪れて御利益を願ってみてはどうだろう。
< text • photo by heboto >